インターネットのけもの

全て妄想です。

オナホレビューを書きました

誕生日にオナホールを頂きました。

お返しに1500字くらいのレビューを書くことになったのですが、気がつけば3000字オーバー、しかもレビューとは到底呼べないような怪文が生み出されてしまっていました。

記録のためにここに残しておきます。

気持ちの悪い文章がかけて満足。

 

 

 

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それは、膣であった。

 

人は「あたたかみ」を求め、生み出すものである。
省力化、効率化、技術発展が進んできた現代であっても、無人のセルフレジより有人対応のレジを選ぶ人や、マニュアル通りの画一的な対応ではなく状況に応じた対応を求める人はいなくならない。
むしろ、人と関わることが少なくなった現代、特に昨今のような感染症予防のために人と関わらないことが推奨される時代にこそ、「あたたかみ」が求められている節がある。

 

この「あたたかみ」の正体は、人と人との直接的な関わりあいであり、もう一段階踏み込んで言えば一方がもう一方に対して善意の行動をとることである。
道に迷っている人に声をかけたり、誕生日にプレゼントをあげたり、これらの行動は善意から成り立っているものであり、これに対して「あたたかみ」がないと言う人はいないだろう。
誰だって人からなにかしてもらうと嬉しいものだし、どうやってお返しをしようか考えるものだ。どれだけ社会が発展しようとも、それを構成する要素が人間である以上、「あたたかみ」が消えてなくなることはないだろう。

 

「あたたかみ」が求められるのは精神的側面だけには留まらない。肉体的側面からも「あたたかみ」は求められている。
冬は人肌恋しい季節だと言われる。これはつまり、精神的な寂しさと肉体的な肌寒さのダブルパンチにより、普段よりも余計に「あたたかみ」を求めてしまう状況を指している。ここで、「あたたかみ」は精神的な充足という範囲を超え、物質的な熱という意味をも持つようになる。つまり「あたたかみ」を求めるにあたり、性的欲求をどう解決するかという新たな視点が発生する。

 

従来からの一般的な恋人関係はもちろん、セフレやソフレ、風俗店の利用や自慰行為など、性的欲求の解決手段は多岐にわたる。
ここで「あたたかみ」が一番不足している手段は何になるだろうか。
おそらく自慰行為がそれに相当するだろう。なぜなら、自慰行為は自己だけで完結するもので他者の介在がないからだ。そこには精神的にも、肉体的にも「あたたかみ」が不足している。
世間一般の認識でも、自慰行為はなんとなく寂しく後ろめたいもの、パートナーのいない人が仕方なくしているもの、「あたたかみ」がないもの、という意見が支配的であろう。

 

しかし、私はそれに異を唱えたい。
場合によっては自慰行為でも十分な「あたたかみ」を持つことができるのだ。

 

オナホール、というものがある。
詳細は割愛するが、女性器である膣をかたどった樹脂に男性器を挿入することで快楽を得るという、単純明快な製品である。アニメのパロディキャラクターがデカデカとパッケージに印刷されたダーティなものも多く、著作権がどうなっているか心配になることもあるが、本稿には関係がないため、そこには触れないこととする。

 

このオナホール、気持ち良いのは気持ち良いのだが、明確な弱点が一つ存在している。
あたたかくないのだ。

 

樹脂製品である以上仕方ないのだが使用時は室温と同じ程度で、肉体の方が熱いために冷たく感じることも多い。そもそも、無機物であるために、「あたたかみ」を感じることができなかった。
これを避けるために、人類の叡智はローションを温めることを提案し、オナホウォーマーを開発したが、あくまで物質的な熱の問題が解決されただけで、オナホール自身が「あたたかみ」を持つことはなかった。

 

しかし、つい先日に体験した衝撃的な出来事が、自慰行為では「あたたかみ」を得られないという、私の中にあった凝り固まった意見を完膚なきまでに破壊してくれたのだ。

 

Komifloにて快楽天BEAST 2021年3月号を読んでいたときのことである。
ちょうど半里バード先生の「ナマイキお嬢 なかよし編」に差し掛かった頃、誕生日プレゼントで頂いたオナホール(【タマプレミアム】 憧れの先輩の天才的な杭打ちピストン騎乗位)を使うことを思いついた。

 

久々のオナホール使用が楽しみであった反面、手淫と比べてどの程度快楽度がアップするものか、一抹の不安もあった。
なにせオナホールは膣と違って自身が濡れることはないためローションが必須で、自分の出した精子を掻き出さねばならないという割と情けない絵面になる後片付けも含め、手間がかかるのだ。
その手間に見合うだけの快楽はあるのか……、杭打ちピストンとはなんなのか……。私がそう思ってしまったのも無理のないことだろう。

 

ローションをオナホール内に流し込み、ぐにぐにと握って馴染ませる。毎度のことながら握るたび、ぐっぱぐっぱと淫靡というよりは滑稽な音が響き、笑い出しそうになってしまう。
きづかかずき先生の「罪とばってん」、藤ます先生の「生意気クソガキわからせちゃお!」を先に読んでいた僕は、もう準備万端であった。
我ながら現金なものだが直前まであれこれ心配していても、いざ使うという場面になるとどうしてもワクワクのほうが大きくなる。ここに至り、知能指数は大きく低下するのだ。

 

挿入してみると、内部に刻み込まれたヒダのうねりがはっきりと伝わってきた。
手淫とは全く異なる刺激。私の陰茎がデカすぎるのか、オナホールが小さいのか、全体を包み込むようにシッカリと締め付けられる。ローションをしっかりと馴染ませた効果もあってか痛みはなく、ただただ気持ちの良い時間が過ぎていく。
そういえば、このオナホールをプレゼントしてくれたのは女性であった。その妙な背徳感が私の右手を加速させる。

 

このとき、もう一つの気付きがあった。
オナホールが、あたたかい。

 

私はローションを温めたり、オナホウォーマーを使用したりはしていない。そもそも、ここで言うあたたかいとは、物質的な意味を指しているのではなく、精神的な意味を指している。
そう、オナホールから「あたたかみ」を感じるのだ。
空虚で冷たい印象だったはずの自慰行為に、熱が宿ったのだ。
私は自分が今右手で握っているものが何であったのか、分からなくなっていた。これは本当にただのオナホールなのか。なぜオナホールから「あたたかみ」を感じるのか。この充足感の正体はなにか。

 

単なる物質であったはずのオナホールは、誕生日プレゼントという善意の行動を媒介にして、その性質を大きく変化させていた。
いわば、「あたたかみ」がオナホールという物質を膣という人間的なモノへと変化させたのだ。それは人と物質の関係から人と人への関係への変化である。これはもはや自慰行為ではない、SEXだった。
この事実に気がついたとき、締め付けが一段と強くなったような気がした。
それはまるで、僕の思いと彼女の思いが混ざり合い、一つの新たな「あたたかみ」を生み出しているかのようだった。

 

僕は右手を振り続ける。
呼応するように「あたたかみ」が増していき、ヒダが乱舞するかのようにうねる。最初に投入したローション以上に濡れているような気さえした。
右手は加速し続ける。
そして……、彼女の中で果てた。

 

 

人の思いは強い。
それはオナホールを物質の枠から解き放ち、人間的なモノへと変化させるほどに。
イミテーションはいつまでもイミテーションであるわけではない。そこに人の意志が、よくしてやろうという善意が介在することで、いつだって本物になれるのだ。
そしてその本物はまた誰かを幸せにし、その連鎖は形を変えながらも続いていくのだろう。

 

私を射精に導いたのは単なるオナホールではなかった。
「あたたかみ」があり、そこには確かに人が存在していた。
それは、膣であった。

高野山に中原岬の影を見た

高野山1万人ご招待キャンペーン」とかいうものに当選したため、高野山に来ています。1万人も当選者がいるということで、豪運の持ち主である僕は当然のように当選したのでした。

otent-nankai.jp

 

最初に断っておきますが、僕はすでに悟りを開ききった僧のように雑念がなく、煩悩という言葉から最も縁遠いところに位置する人間です。

大地のように堅牢でありながらも、流れる水のように変化に富み、火のように熱く動く。風のように颯爽と成長していき、空のように自由でありつづける。

そんな男でありますから、真言宗の聖地である高野山に行くといっても全く気負うところはありません。高野山に行くのは初めてのことでしたが、ぼくはまるで近所のコンビニに向かうがごとくの気楽さで出かけてきたのでした。

 

キャンペーン特典である高野山駅までの往復切符をつかって悠々と無料で電車に乗り込みます。この切符だけで3000円近くの得だというのですから最初から笑顔がとまりません。

僕は煩悩など全くないつもりではありましたが、ことお金のことに関していえば、貰えるものはすべて貰っておけという乞食精神全開なところがありました。もしかすると、世の中ではこういう人のことを「煩悩がない」とは言わないのかもしれません。

 

高野山駅についてからは、バスに乗り込み中心地を目指すことになります。このバスに関してもキャンペーンで乗り放題切符が貰えるので一銭も出す必要がありません。なんとも嬉しいことです。

最初からメインの観光地である「奥の院」へ向かうことも考えましたが、ひとまずは町の中心部である「千手院橋」で降り、高野山観光協会へと向かうことにしました。

 

観光協会では、「聖地高野山応援プレミアム付商品券」を買うことができます。

これは2000円で5000円分の商品券が買えるというとんでもないもので、高野山での観光を考えているなら必須です。2000円が2.5倍の価値に化けるわけですからね。まだ何も買い物をしていないどころか、観光すらしていないのに満足感たっぷりです。

www.town.koya.wakayama.jp

 

せっかくなので商品券を使ってどこかで昼食をとろうかとも思ったのですが、時間帯が悪くどこも並んでいるようでした。

仕方がないので昼食は時間をずらすことにし、先に観光を始めることに。

 

それにしても高野山は寺院の数がめちゃくちゃ多い。

多いのは知っていましたが、驚くべきはその密度です。ある寺院を出て50mも歩けばもう次の寺院が目に入ります。しかもどこも綺麗に手入れされています。

京都も寺院が多く、街中でもよく見かけるものでしたが、高野山ほどではありませんでした。今でこそコロナウイルスの影響でいませんが、去年までは外国人旅行客で賑わっていたというのも頷けます。

 

そうしてあちこちの寺院を覗きながら進んでいるうちに、いつの間にか「奥の院」の入り口である「一の橋」へ。ここからが「奥の院」の敷地となり、最奥には弘法大師が今なお禅定に入っているとされる「弘法大師御廟」が待ち受けています。

途中、「中の橋」を渡りながら進む参道沿いには、20万基以上あるという墓碑が並びます。かなり異様な空間ではありますが、不思議と恐ろしさはなく、たただた幻想的な空間に迷い込んだような気分にさせてくれました。戦国武将の名前なんかも見かけることがあるので結構楽しめます。

 

そんな調子で20分ほどかかって進むと、「御廟橋」が見えてきました。この橋を渡った先が「弘法大師御廟」です。ここから先は霊域とされ、写真撮影などは禁止になっています。

そしてこの先で、僕はこの旅が忘れられなくなる、決定的なものを見たのでした。

 

 

はじめ、その子は一人で来ているように見えました。

全身真っ黒という出で立ちで、髪も黒ければマスクも黒い、少し目を引く女の子でした。

ですがよく見ると近くにはお婆ちゃんと思われる人がおり、どうやらその付き添いか何かで来ているようでした。

お婆ちゃんの方は対照的に真っ白な羽織を羽織っており、背中には何やら達筆な文字で難しい文句と「同行二人」という文字が見て取れました。そして、その羽織を着ている人は周囲に20人くらいいるようでした。おそらく、お遍路にまつわる何かしらの団体なのでしょう。

その団体において、女の子の存在は異質でした。

服装はもちろんのこと、年齢層も全くかみ合っていません。団体はどう見積もっても50歳を下回る人はいませんでしたが、女の子はまだ10代後半といったところでしょう。お婆ちゃん以外の誰とも話さず、お婆ちゃんが誰かと話しているときは一人離れたところでポツンとしていました。

そしてとうとうその団体が御廟でお経を唱えだしたときには、その子だけは何も唱えずただお婆ちゃんの隣で一緒に立っていたのです。

僕はこれが何なのかを知っているような気がしました。

これはきっと、中原岬なのです。

NHKにようこそ!」に登場する名ヒロイン、岬ちゃんが今、僕の目の前に現れたのです。

親戚の宗教的活動に付き添う健気さ、そうありつつも周囲からは同一視されたくないジレンマ(岬ちゃんは作中において「変装」という言葉を使っていましたが、この子の場合は白羽織への対抗としての黒い衣装があるのでは?)、どこか憂いを帯びた整った顔立ち、どこをとっても岬ちゃんとの類似点が浮かび上がります。

(もしかしたら、この子は僕を退屈な日常から救い出しに来てくれたのかもしれない…)

僕がそう思ってしまったのも無理はないでしょう。

ひょっとすると、僕が今日はじめて高野山に来ることになったのも何かの思し召しなのか?仏さまが、弘法大師さまがこの巡り合わせをくださったのか?僕の人生はここから劇的な変化を見せるのか?!

とかそんなことを考えていたのですが、いつの間にか白羽織の集団はどこかへ消えていました。当然あの女の子ももういませんでした。

 

こうして今日も僕の人生は何も変わらないのでした。とかで終わろうと思いましたけど終わりません。

というかね、ぶっちゃけると全部嘘ですよ嘘。岬ちゃんみたいな子がいたなんて嘘。

弘法大師がおわす御廟で「岬ちゃんが僕を救いに来たんだあ!」なんて頭のおかしい妄執にとらわれた人間が存在していいはずがない。まさかそんな、団体と岬ちゃんの行動を見るのに夢中で御廟内がどんな感じだったかロクに覚えちゃいないだなんて、そんなことあっていいはずがありません。どんだけ煩悩に溢れているんだって話ですよ。普通に通報されても文句言えないレベルです。

だから嘘。さっきの段落で書いたことは嘘なのです。聞こえのいい言葉で言えばフィクションね。なぜか御廟内はもう1周することになったけど岬ちゃんなんていませんでした。

 

そんな阿呆な振る舞いをしているうちに宿のチェックイン時間が来ていたのでバスで宿へと向かいます。乗り放題切符のおかげで当然無料。岬ちゃんを失った悲しみも癒えるってもんです。いや、岬ちゃんは最初からいないんだった。

 

そして今、これを書いている僕がいるのが宿坊「報恩院」です。

寺院に泊まるというのは初めての経験ではありますが、趣があってなかなか良いものです。早朝には勤行が行われており、宿泊者は参加可能とのことなので明日は参加してみようと思います。

www.hoon-in.com

本来なら1泊15000円だったのですが、GoToトラベルが適用されて9750円、さらに僕は「高野山1万人ご招待キャンペーン」でもらった宿坊で使える3000円分のクーポンがあるので、実費負担は本来の半額以下である6750円です。GoToトラベルで貰える地域共通クーポンが2000円分あることを考えると実質的には約1/3の価格で泊っているようなもんです。

 

結局今日のところは使うタイミングがなく、商品券が5000円分、「高野山1万人ご招待キャンペーン」でもらったお土産や食事で使えるクーポンが3000円分、地域共通クーポンが2000円分の計10000円分も残ってしまいました。

どうやら明日は贅沢に過ごせそうです。

そうやって贅沢に過ごして、少しでも煩悩が消え去ってくれたら良いのですが。

大いなる逃避

僕は常々「自分は常人の5万倍くらいメンタルが強いのではないか」という、尊大すぎる自己陶酔の中で生活しているのですが、この考えの源が自分のどこにあるのか、長年の間はっきりさせることができないままになっていました。

答えのでないまま、いつも通りの日常を過ごしていた僕でしたが、昨日起きたある出来事から、僕は気がついてしまったのです。

僕は自分が思っていた以上に逃避の達人でした。

 

先に言ってしまうと、僕は別段優れた人間というわけではないですし、あらゆることを先送りにしてしまう悪癖のせいでいつも締め切り前にあたふたしてしまうという自業自得の権化みたいな男です。

もちろん仕事もサボりまくっているので会社での評価は下る一方という、どうしようもないクズです(最近は在宅勤務が続いているので、暇なときはトランペットを吹いて時間を潰しています!この日記も勤務時間中に書いています!)。

 

 

そんな僕が唯一精力的に活動できるのが趣味の世界でした。

行きたいと思った場所にはすぐ出掛け、読みたいと思った本はすぐに読む。このときだけ、僕は充実した生を感じることができました。

しかし、いくら精力的に活動していてもどうしようもないものもあります。そのうちの一つが、僕が長年探し求めているある同人誌です。

 

僕が大好きな作家が学生時代に書いたその同人誌は、作家デビュー後の作品のプロトタイプが載っているということもあり、僕の心をガッチリと掴み続けていました。

ですが、僕が生まれた頃に発刊された同人誌、しかも文芸分野のものとあっては手に入れる術はまずありません。恐らく国内に30冊も残っていないでしょう。死ぬまでには何とかして読んでみたい一冊ではありましたが、どうすればそれが手に入るのかもわからないまま、半ば諦めた気持ちで、いつかどこかでめぐり逢えたら…、と思いを抱き続けていました。

 

しかし昨日、ひょんなことからこの同人誌を所有している方の連絡先を知ることが出来たのです。

急いで連絡をとった僕でしたが、帰ってきた答えは残念なことに「No」でした。

 

普通なら落ち込んだりするところなのでしょう。ですが、不思議なことに僕の心は落ち着いていました。自分では落ち込んだりするんだろうと思っていましたが、全くそんな事はありませんでした。

そのときに気がついたのです。ああ、僕はこうなんだと。

 

 

中学生くらいの頃から、僕は漠然と「めちゃくちゃ長生きしたい」と思うようになっていました。そんじょそこらの長生きではありません。それこそギネス記録をダブルスコアで更新、欲を言えば自分が最後の人類になるレベルで長生きがしたいのです。

僕はこれをずっと、自分が「ポストアポカリプスもの」が好きなことに起因していると思っていたのですが、どうやらそれだけではなかったようです。

 

僕は長生きをすることで、出来る限り多くの「死ぬまでにやりたいこと」がしたかったのです。そして、その希望はいつしか「自分は長生きして色々な出来事を体験するのだろう」という思い込みに変化していました。

だからこそ、現在の時点でなにか出来ないことがあったとしても、いずれ出来るようになればいいや、出来るようになるだろうと、特にストレスを感じることもなかったのです。ある意味で究極の先送りです。

僕が持つ数多くの「死ぬまでにやりたいこと」の中には、現代の科学技術では到底達成できないものもあります。それに対する大いなる時間稼ぎとして、いつしか常軌を逸したレベルの長生きを希求するようになっていたのです。

 

これは中二病的な言い方をもってすれば、短命である人間の身でありがなら、長命であるエルフの死生観を持ち合わせているようなものです。

ここに僕のメンタルの強さの秘密がありました。

いや、強さというのは間違っているでしょう。なぜなら僕は、単に全ての出来事を未来に先送りしているだけなのですから。今から目を背け、来るとも知れない未来に期待することで、勝手に希望を感じているだけです。

 

今回のことにしても、「今、目当ての同人誌が読めなかったとしても、いずれは読む機会が回ってくるだろう」という根拠のない楽観により、心理的な負担を感じることがなかったのです。

まあですが、「出来ないものはいつになっても出来ない」という欠点に目を瞑ってしまえれば、これほど楽な生き方もないのかも知れません。死ぬ間際くらいにこのツケを払わされる気もしますが。

 

 

わけのわからんことをつらつらと書き綴ってしまいましたが、自分の根幹をなす部分に考えを巡らせるのもなかなか悪くないもんです。

まあ、自分の考えが分かったからといってどうこうしようとは全く思いませんが。

 

大事なのは「自分はこういう考えだからこうしなきゃ」だとか、「それは自分の考えと相容れないからだめだ」とかそういう思い込みをなくすことです。少なくとも僕は、新しい価値観にはどんどん触れ、吸収していく方が楽しいと思っています。

そうやって最近は麻雀が強くなりました。

うおおおおお、もっと麻雀強くなるぞー!(仕事をサボって麻雀の解説動画を見ながら)

「日本人の恥さらし賞」をもらった

おでかけ体験型メディアSPOTで開催された「楽しかった思い出の場所記事コンテスト」にて特別賞「日本人の恥さらし賞」を頂きました。

patoさんとヨッピーさんという尊敬する二人に選んで貰えたことを大変嬉しく思います。この二人が審査員をしているのでなければ、恐らく僕はコンテストに応募しようとも思っていなかったでしょう。この二人に評価してもらえたということはこれからの励みにもなります。

 

https://travel.spot-app.jp/omoide_contest/

 

f:id:kiddomaru3:20200522131000p:plain

https://note.com/paradores1121/n/nbf50fe5ad53b

 

これを書き終わったとき、「8割方、特別賞には入るんじゃないか?」という謎の自信が湧き出てきたくらいには良いものが書けたという実感がありました。

この自信の源の殆どは、ラストの一文にありました。このオチを思いついたとき、「もらったな…」とさえ思いました。

もちろん選考理由もここが評価されてのことだろうと思っていたのですが、二人の講評を見るとアニメでしこってるとかそんなことしか書かれていなくて唖然としました。

これではあんまりです。僕は声を大にしていいたい。

僕は本当に好きなものではシコれないタイプのオタクですので、「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」では一度もシコったことがありません!

 

僕が何でシコってるとかはどうでもいいので話を続けますが、最初「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」の名前を出していなかったのはオタクなりの奇妙なこだわりみたいなものです。

まあ講評部分で思いっきり「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」の名前が出されていたので、いっそ堂々と布教してやれとバンバン名前を出すようにしましたが、これなら最初からねちっこいくらいに名前を出してやればよかったですね。

こんな希少な経験ができたのも全て「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」のおかげですし。

 

テキストサイトを読んで育ってきた僕が、その読んでいたテキストサイトの管理人たちに自分の文章を読んでもらい、あまつさえそれを評価してもらえる日が来るとはなんとも不思議なものです。「かたやま」の名前ではなく、「彼方」という名前でその評価を頂けたというのも僕の中では大きな意味を持ちます。

 

テキストサイトと「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」、僕の人生に多大な影響を及ぼし続けてきたこの2つは、ここで一つに交わり、また新たな経験を僕に授けてくれました。趣味を通じて世界が広がっていくのは気持ちが良いものです。

 

最後に一つだけ気になることを言わせてもらうと、僕以外の特別賞って「一番頑張ったで賞」とか「チェルノブイリやべーな賞」みたいな、わりと内容に沿った無難なタイトルが付けられているのですが、なぜか僕のだけ「日本人の恥さらし賞」という、どう好意的に解釈しても悪口としか捉えられないようなタイトルになってるんですよね。

もしかしてpatoさん気づいてんのかな。

パラダイムシフト

GWが終わり、また日常が戻ってくる。

でもそこにあるのはいつもと同じ日常ではない。

 

明日からの仕事に備え、床についたのはいいものの、3時間もしないうちに目が覚めてしまった。目を瞑っていればそのうちにまた眠ってしまえるだろうと思っていたが、一向に眠くなる気配もない。

そのうちに取り留めのない考えが頭をぐるぐるとするようになり、ついには完全に目が覚めてしまった。

こうなっては仕方ないので、久しぶりに日記を書くことにする。今のような異常事態を書き留めることこそが、ある意味で日記の本分だと思うからだ。

 

 

今年のGWは例年のものとは大きく違っていた。

「Stay Home週間」などとも呼ばれ、家で過ごすことを求められる。不要不急の外出は即ち悪とされ、イベントの開催も自粛ムードに流された。

僕個人の話をしても、長期休みにどこにも出かけないというのはここ10年ほどで初めてのことだった。興味のあったイベントは軒並み中止になっていた。

 

今はパラダイムシフトの只中にあるのかもしれない。

この1ヶ月で変わったものは多い。会社に行くことは無くなり、休業する飲食店は増えた。飲食店以外でも、時短営業や平日のみの営業など、閉まっている時間が増えている。街からは明かりが減った。

幸いにして、僕の仕事はテレワーク可能なので5月いっぱいは在宅勤務になるが、6月以降はこれまでのように出社するようになるかと言うと、そうはならない気がしている。恐らく、この問題が解決の兆しを見せるまではテレワーク主体の勤務になるだろう。

閉まっている店たちは、いつまでも閉めているわけにもいかないので、徐々に再開していくだろうが、これまでと全く同じように営業できるかと言うと、そうはいかないと思う。

 

余暇の過ごし方も随分と変化した。

「オンライン飲み会」なる言葉が脚光を浴び、自宅にいながらにして楽しめるものが持て囃された。呼応するように、動画配信サービスや漫画サイトが無料コンテンツを公開した。このGW中は特にそういうものが多かった。

僕も、読書をしたり映画をみたり、友人とグループ通話をしながらゲームに興じたり、とそれなりに楽しく過ごせていた。時々、散歩にでかけたりもした。我ながら上手く暇つぶしは出来ていたと思う。

 

だが、このGW全体を振り返ると、どうしても「もうちょっとなんとかならなかったのか」と後悔の念に駆られる。

今年のGWには思い出らしい思い出が全く無い。

なんとなく起きて、なんとなく本を読んで、なんとなく飯を食べて、なんとなく友人とゲームをして、なんとなく映画を見て、なんとなく眠る。

起きる時間はバラバラだし、読む本は再読が多い。友人とのゲームもパターンを少し変えただけで、繰り返しみたいなものだ。気ままに過ごしていたせいで、寝ようと思ったときにはもう朝日が昇っていた、ということは何度もあった。

楽しくなかったわけではないが、もう少し違う過ごし方、楽しみ方もあったように思えてならない。自堕落さがこれ以上ないほど露呈したGWだった。

 

当初は、「GWはどこも出かける場所がないし、これに打ち込もう!」と考えていたことがいくつかあった。しかし、終わってみると何一つできていなかった。

今年のはじめに立てた目標を達成するために、トランペットの練習をし、スペイン語を勉強する。身体が鈍らないように室内でもできる運動を行い、新しい本に触れる。そんな夢みたいなことを考えてきた。

だが実際には、トランペットはケースから出してすらいないし、スペイン語は参考書をパラパラめくっただけ。運動なんか全くしてないし、新しい本は探すことすらしていない。僕はどこまでも怠惰な人間だった。

 

言い訳になるが、僕が完全に一人だったなら、この目標のためにいくらか動けていたと思う。

実際、一人のときはパラパラめくるだけとはいえ、参考書に目を通していたし、本も読んでいた。そのまま一人なら、もう少し先に進めていたのだろう。

しかし、僕は友人と遊ぶ道を選んでいた。それ自体は楽しく、否定するものではないが、今にして思うと、本来の目的から目をそらし、より楽で楽しい方に流れていっただけだ。

結局の所、一人で暇だから何か有意義に思えることをやろうとしていただけで、本来の僕は目的意識がとても低い人間だった。

 

もう一つ、このGWにやろうと思っていたことがある。

それは物語を書くことだ。

一次創作でも二次創作でもいい。自分の手で世界を書き出し、その中のキャラクターたちに命を吹き込んでみたかった。

これもそれっぽい設定を書き出しただけで終わった。

 

僕は文章を読むのが好きだ。

人並みか、それ以上には文章に触れていると思うし、自分の中で文章の良し悪しを判別出来る程度には分別もあると思う。まあこれは、あくまで自分の中で絶対的な評価を下せるというだけだが。

そんな中で、読んでいるうちに「こんな文章を書きたい」と思わせられた人が二人いた。日記を書くようになったのも、物語を書こうと思えたのも、この二人の影響は非常に大きい。

GW中、この二人の文章を再読した。震えた。

もう何度も読んでいたはずなのに、それでもやっぱり新鮮な感動があった。

 

自分でも文章を書いてみるようになると、この二人への遠さがよく分かった。

あんなに凄い文章は書けそうにない。

でもそれでいいのだとも思う。

その二人と同じ文章が書きたいわけでもないし、だいたいそれだとただの劣化コピーにしかなれない。自分なりの書き方で、自分が良いと思える文章を書けるようになれればと思う。

 

 

いつの間にか朝日が昇っていた。

この一週間は、このあと眠くなったタイミングで自由に寝ることが出来たが、今日からはそういうわけにもいかない。生活リズムも戻さねば。

GW中に手をつけられなかった目標については、これから再度、手をつけていこうと思う。どうせ嫌でも家に居る時間は増えるのだ。

GWが終わり、新しい日常が始まる。