おばあちゃんが死んだ
2024年8月26日23時48分、おばあちゃんが死んだ。
8月2日に89歳の誕生日を迎えたばかりだった。
もともと神戸に一人で暮らしていたおばあちゃんは、僕が中学生の時に大阪に引っ越してきた。
その時から、おばあちゃんは「たまに遊びに行く親戚」から、「一緒に暮らす家族」になった。
一緒に暮らす、とはいえ同居していたわけではない。おばあちゃんは住んでいたマンションを引き払い、僕が住む家の前に建てられた新築の家に引っ越してきたのだ。
お互いに相手の玄関まで10秒もかからないその近さゆえ、必然的に一緒に過ごす時間は多くなった。
夕食はおばあちゃん家でみんなでとるようになったし、僕自身もそっちの方が集中できるからとおばあちゃん家でテスト勉強なんかをするようになった。そのうちパソコンの置き場所もおばあちゃん家に移り、結局は一日のほとんどの時間をそこで過ごすようになった。友達と遊ぶのもおばあちゃん家だった。
そうやって過ごす僕に対し、おばあちゃんはよく、生協で注文したお菓子やジュースをくれた。今となってはおぼろげな記憶になってしまったが、生協の注文書を眺めながら、「あんた、何かほしいもんあるか?」と聞いてくれたことが何度もあった気がする。
基本的には自分で注文の品を取りに行くおばあちゃんだったが、たまには僕が取りに行くこともあった。
そうやって取りに行った品の一部は、仏壇に供えられることになっていた。
おばあちゃんはそこそこ熱心な創価学会員だったので、毎日、朝と晩に仏壇の御本尊様に向かってお題目をあげていたのだが、そのときに団子なんかをよくお供えしていた。
そういった供え物は一度下げられると、たいていは僕のお腹の中に消えていくことになっていた。
記憶の中のおばあちゃんは、このお題目をあげる姿が印象深い。
身体がすっかり弱っていたここ数年はもうお題目をあげることはなかったけれど、元気な頃は毎日欠かさず勤行をしていた。その熱心さといえば、なんとなく耳に入ってくるだけの僕が出だしの部分を覚えてしまうほどで、「門前の小僧なんとやらって本当のことなんだなあ」と妙な感心をしたことを覚えている。
あんなに毎日なにを祈っていたのか、もはや知るすべはないが、一度くらい聞いてみてもよかったのかもしれない。
それだけ熱心なおばあちゃんだったが、ありがたいことに僕にそれを強要することはなかった。
せいぜいが選挙のたびに「公明党に入れてくるんやで」と言ってくるくらいで、僕はもちろん全然違うところに入れているのだが、おばあちゃんには「公明党に入れてきたで!」と答えていた。おばあちゃんは満足そうに笑っていた。
大学生になったあたりからは、寝泊まりもおばあちゃん家でするようになったので、ほとんど一緒に暮らしていると言っても過言ではなかった。
僕は極度の面倒くさがりだったので、布団を持ち込まずにリビングのソファで寝起きしていたのだが、そうやってソファからのそりと起き出した僕に対し、おばあちゃんはいつも朝ご飯を用意してくれた。
メニューはたいてい決まっていて、食パンにチーズを乗せて焼いたものと、生協で注文したチチヤスのヨーグルトだ。日によって、これにベーコンだったり、ウインナーなりスクランブルエッグなりがついてくる。
僕の中でのおばあちゃんの味はこのメニューだ。
夕食で天ぷらなど手間のかかるものを作ってくれることもあったので、こんなシンプルなメニューをおばあちゃんの味と言ってしまうのはなんだか悪い気もするが、毎日のように食べたモノの方をよく覚えているのは仕方ない。
(余談だが、おばあちゃんがよく見ていたTV番組は「上沼恵美子のおしゃべりクッキング」で、メモを取りながら熱心に見ていた)
おばあちゃんは銭湯に行くのが好きで、毎日のように通っており、誕生日には家族から近所の銭湯の回数券をプレゼントするのが習わしになっていた。
銭湯から帰ってくると、冷やしておいたビールをちびりとやりながら、ときどき日記を書いていた。なにが書かれているのか、僕は読んだことがないので知らなかったが、妹が聞いたところによると、主に家族のことについて書いていたらしい。
そんなに書くようなことがある家族か?とも思ったが、おばあちゃんからすると何かしら書き記しておきたいことがあったのだろう。
そんなおばあちゃんが死んだ。
数年前からボケてしまっていて、ここ数ヶ月は一人でトイレに行くのも難しいくらい身体も弱っていたから、もうそんなに長くないだろうなと思っていたけど、夏を超えられないまま、あっさりと逝ってしまった。
ボケてしまってからのおばあちゃんは、やはりどこかが前とは違ってしまっていたように思う。
怒りっぽくなっていたし、好きで通っていたはずのカラオケにも行かなくなっていた。生協の注文書を見ることはなくなり、仏壇の前に座ることすらしなくなっていた。身体が弱ってきていたこともあり、銭湯に行くことも、ご飯を作ることもなくなった。
ゆっくりと、でも確実におばあちゃんは変わり始めていた。
この変化がいつ始まったのか、明確には覚えていない。気付いたらそうなっていた。僕はもう、最後に食べたおばあちゃんの手料理がなんだったのか、思い出すことは出来ない。
ボケというのは厄介なもので、外見は何一つ変わっていないのに中身はだんだんと壊れていく。
そのうち、家の中で僕と顔を合わせるたび、「あんた、今日休みか?」か「あんた、おっきなったなあ」のどちらかばかり言うようになった。そのたびに僕は、「休みやで~」なり「元々や!」なり返していたが、少し時間が空くとまた同じ質問が繰り返し飛んできたりした。
思い返せば、僕の中ではこの頃からもうおばあちゃんとのお別れは始まっていたのかもしれない。
もう昔のようなおばあちゃんに戻ることはないのだと思うと、ただただ無力感だけが募っていった。
今年の夏が始まった頃には頭も身体もすっかりと衰えてしまい、一人では満足に歩けないほどになっていた。家族の姿を見ても、誰が誰だか分かっているのか怪しい素振りを見せることもあった。こうなってしまうともう、常に誰かが世話をしなければならない。
とはいえ、僕自身は世話をすること自体そこまで嫌ではなかった。怒りっぽくなって、言うことを全然聞いてくれないことには辟易したものだったが、それ以外のところ、例えばトイレの世話なんかは全くと言っていいほど抵抗がなかった。
これは自分でも意外だったが、弱っていくおばあちゃんの面倒は自分が見なければという思いすらあった。
なぜそう思い至ったのかは分からないが、散々飯の世話をしてもらったのだから下の世話くらいして返さねばという思いが少しあったような気がする。
あとは、心のどこかでこうやって世話ができるのも、もうそんなに長くないと分かっていたんだと思う。
ここで少し話は逸れるが、家庭内での介護、特に認知症高齢者の介護というものは本当に負担が大きいものだと感じた。
我が家の場合は、かなり恵まれた環境であったと思うが、それでもやはり苦しい部分はあった。
週2回のデイサービス(入浴介助アリ)、毎日の訪問看護(点滴・摘便アリ)という補助はあったものの、それ以外の時間は基本的に家族のみで介護をしなければならない。
特に最後の一ヶ月くらいは、自分の足でトイレに行くことも出来ず、飲食もおぼつかないという有り様だったため、常に誰かがついている必要があった。
なかでもトイレが問題で、おばあちゃんは夜中でも1~2時間に一度くらいのペースでトイレに行きたがる。一応オムツを穿かせているので放っておいてもよい気もするが、放っておくとマトモに一人で立つことも出来ないのに立ち上がってトイレに行こうとするので危ない。なので、夜中であっても誰かが手を引いてトイレに連れて行く必要があった。
もちろん、出した分の水分も補給させてあげなければならない。
とはいえ、コップに水を入れてグビグビ飲むということは出来ないので(そもそもコップをしっかり握る力もない)、少しずつ口元に水分を持っていってあげることで喉を潤わせる。
これが毎日朝まで続くのだからたまったものではない。さらに言えば、朝が来たからと言って終わりではない。日中も同じことが繰り返されるのだ。
幸いなことに、僕はほぼテレワークだったため、日中帯は僕が面倒を見、夜間は家族内で持ち回りとすることで家庭内での介護をこなすことが出来たが、出勤の必要があったり、面倒を見れるのが一人しかいない場合は生活が崩壊していたと思う。
このあたりは父と母の尽力が大きかったので感謝しかない。まあ向こうも同じように思っていたのか、事あるごとに僕に礼を言ってきたが。こういうのはそのとき出来る人がする、で良いと思うんだがなあ。
そうやって家族一丸でおばあちゃんの面倒を見ていたわけだが、一つ印象的だったことがある。
その日の担当は僕で、夜中に起きだしたおばあちゃんの手を引いてトイレに連れて行った。こういうとき、おばあちゃんはいつも「ありがとう」としきりに言ってきていたものだったが、この夜は少し違っていた。
「かしこくなりたいなあ」
おばあちゃんの口からこんな言葉が漏れてきた。
どういう意図で発せられた言葉なのかは分からない。
だが、すっかり弱りきってしまい、おそらく先が短い人間が発するものとして、とても大事な思いがここにあると感じた。
8月17日におばあちゃんの入院が決まった。急な決定だった。
まだしばらくは家で過ごすものだと思っていた僕はこのとき、岡山の友達の家に泊りがけで遊びに来ていた。
なんとなく、まだもう少しは大丈夫だと思っていたが、おばあちゃんはもう限界だった。
とはいえ、お見舞いに行って見たおばあちゃんの姿は、意外と元気そうだった。
もはやまともに喋ることは出来なくなっていたが、それでも、こちらが話しかけた内容には反応してくれていたし、体調が良いときには笑顔を見せてくれたりすることもあった。
そんな調子だったから、入院して逆に体調が良くなってきている気すらしていた。
だけどそれは、おばあちゃんが最後に頑張ってくれていただけなのかもしれない。
8月26日の朝9時過ぎに病院から連絡があった。
どうやらおばあちゃんの容態がかなり悪化しているらしい。ひとまず母親が様子を見に行くことになり、僕も夕方に仕事を切り上げて病院へと向かった。
そこにいたおばあちゃんは、どう見ても限界だった。
話しかけても反応はないし、笑顔なんて素振りも見せない。起きているのか眠っているのかさえも分からない状態だった。
そんな状態ではあったが、病院の面会時間が決まっていることもあり、特例で認めてもらった父親だけを残して家に帰ることになった。父親によると、この残っている間に写真を見せたりしたら、おばあちゃんも反応をみせていたらしい。
帰宅後、23時過ぎに病院から改めて連絡があった。
父親も一度帰ってきていたタイミングだったため、家族全員で病院へと駆けつけた。
ベッドに横たわるおばあちゃんの姿は、口が半開きになっていたこともあり、なんだかマヌケな顔で寝ているようにも見えた。でも、その表情はもう、全く動かなかった。
そんなおばあちゃんにみんなでお別れの言葉をかけた。
そして、2024年8月26日23時48分、おばあちゃんが死んだ。
ありがたいことに、僕は今まで身近な人が亡くなるという経験をしたことがなかった。
おばあちゃんが初めてだ。
もっと悲しい気持ちになるものかと思っていたが、案外そこまで悲しくはなかった。これは多分、なんとなくもう駄目なんだろうなという思いがずっと前からあって、事前に心構えをする準備期間が用意されていたからだと思う。
ただ、漠然とした寂しさは感じている。
何年も同じ家で過ごしてきたし、特にここ数ヶ月は生活の中に占めるおばあちゃんの割合が大きかった分、余計に感じているところはあると思う。
そんなときは、仏壇から微笑みかけているおばあちゃんに向かって、「89まで生きりゃ大往生やろ」なんて話しかけながら、お菓子を供えてやることにしている。
昔もらったお菓子のお返しというわけでもないが、こうすることで、これまで世話になってきた分を少しでも返せているような気がするから。
そのうち、この寂しさも薄れていって、おばあちゃんがいない家が日常になるのだろう。
おばあちゃんが寝ていた介護用ベッドはすでに撤去され、家の中はもう変わり始めている。生前着ていた服をどう処分したものか、なんて話題も家族の中で出ている。
おばあちゃんの痕跡はどんどん少なくなっていって、思い出す機会も減っていくのかもしれない。
それで良いのだと思う。
でもやっぱり、たまにはおばちゃんのことを思い出すはずだ。
そんなときに読むための文章として今日の日記を書いた。完全な自己満足ではあるが、日記なんだからこれでいい。
これを読めば、思い出の中のおばあちゃんに会えるのだ。
【30歳になってしまった僕は】~競馬企画の消失、他~
この前の日記の続き。
「アマガミSS」と「アマガミSS+ plus」見てたら書きかけのまま忘れそうになってしまった。先送り癖よくない。
・競馬企画の消失
昨年夏にJRAの全競馬場十場(札幌・函館・福島・新潟・東京・中山・中京・京都・阪神・小倉)を全部回って帯獲得(馬券で100万円以上の配当を得ること)を狙うという企画をふと思いついたので、以前に「日本人の恥さらし賞」なる大変名誉な賞を授与してくださった某WEBメディアに相談したところ、書いたら載せてもええよと快い返事が。
もともと載せてもらえないにしても、全競馬場を巡ってその顛末を書き記すことはしようと思っていましたが、書くからにはやはり大勢の人に見てもらえた方が嬉しいもの。しかも掲載料まで頂けるというのですから思わず笑みがこぼれます。
そんなわけで2022年、20代最後の夏は日本各地の競馬場を巡る夏となったのでした。
僕の頭の中では、各地の競馬場を巡り馬券勝負を繰り広げる中で、大勝ちはしないまでも交通費くらいは稼いでトントン、あわよくばマジで帯獲得しちゃおうというお花畑のようなロードマップが展開されていたのですが、まあこれが恐ろしいくらいに思い通りに行かない。
掲載料として提示されていた金額は最初の競馬場に訪れた時点ですべて吹き飛び、初っ端から大赤字のスタート。次で巻き返してやろうと思ったものの、その後競馬場を4つ回った時点での馬券的中がまさかの0。馬券収支がプラスだった競馬場が0じゃないですからね。馬券的中が0。つまり一度も馬券が当たることのないまま、4つも競馬場を訪れたことになります。僕ってこんなに競馬ヘタクソだったのか。
別に記事を書いて稼いでやろう!なんて気持ちで始めたわけではありませんが(あったらこんな金のかかる企画はしない)、このまま終わってしまうのはあんまりです。お金がなくなったぶん、せめて何か得るものを、せめて良い文章に仕上げられるようになろうと、しこしことキーボードを叩き続けました。
そこには「公開されたら「推し」に見てもらっちゃお~」という割りと邪な思いもありましたが、残念ながら「推し」は企画の終了を待つことなく卒業してしまったので、もとよりこの企画は呪われたものだったのでしょう。
そしてなんとか全競馬場を巡りきり、大赤字のままで旅を終えることに。北は北海道から南は福岡まで、日本各地を訪れたわけですから旅費だけでもかなりのものになります。それに加えて馬券のマイナスも伸し掛かってくるというのですから、その悲惨さは推して知るべしでしょう。
そんな逆境にもめげることなく、記事用の文章もなんとか書き上げ、某WEBメディアに入稿完了。担当してくれた方が内容チェックするとかで暫く待つことになりましたが、これでひとまず僕のひと夏の思い出を公開する準備は整いました。俺のひと夏かけた失敗を、せめて誰か笑ってくれよと願いながら、連絡を待ちます。
しかし、待てど暮せど連絡が来ない。
修正したい箇所が見つかったこともあり、こちらから連絡してみたところ、向こうでチェックした結果、修正が必要な箇所が見つかったので、それを連絡するまでは待ってほしいとのことでした。修正箇所は近日中にまとめて送ってくれるそうです。
それが昨年10月の話でした。それから今に至るまで続報はありません。
お察しのとおり、この項はほとんど愚痴みたいなもんなんですが、それにしても載せるって言ったからには責任持って対応してもらいたいもんです。
別に面白くなかったからボツってんならそれでもいいんですが、修正箇所送るって言っておいてそのまま宙ぶらりんにするのは違うと思うんですよね。しかもどうやら、僕のネットストーカースキルを駆使して調べたところ、修正箇所を送りますって言ってた方はどうやら既に某WEBメディアを辞めているっぽい。多分引き継ぎとかもしてないんだろうな。
いっそこのブログに載せようかとも思いましたが、一度向こうに送っている以上、勝手に載せるのもなあとか迷っているうちに今になってしまいました。でも不思議と悔しい思いはそんなにありません。
たぶん「推し」が卒業してしまい、読んでもらいたい相手がいなくなったのが一因なのでしょう。あと、読み返してみたら冗長な表現が目について、あんまり面白くないかも?と自分で気付いてしまったからと言うのもあります。
今日の日記もそうですが、普段は全然書かないくせに、いざ書き始めると書きたいことが多すぎて冗長になってしまうのは悪い癖です。おお、なんか自分を見つめ直している感じが出て上手くまとまりましたね。いや、まとまってないか。
今にして思えば、連絡が返ってこなくなった時点でもっとやりようはあった気がします。トップページからお問い合わせメールを送ってみるなり、twitterでDMを送ってみても良かったかもしれません。
なんにせよ必要だったのは、自分はここにいるとアピールすること、舐めた真似をしてはいけない相手だと思わせることだったのです。
話は少し変わりますが、僕は日常生活において怒ることがほぼありません。もう10年以上、怒鳴った記憶もありません。別にこれはクールな俺カッコいいやろ的なアピールでもなんでもなく、単に僕が小心者だという話です。
そんなこともあってか、僕は割りと舐めた態度を取られることが多いのですが(例:後輩に社内チャットで話しかけた途端相手のステータスが「退席中」になる、全然仲良くない人から結構遠い場所へのお使いを頼まれる、など)、そんな僕が明確に「こいつは僕のことを舐めているんだな」と思う瞬間があります。
それは自分の時間をないがしろにされた時です。
人が持つものの中で一番貴重なものは時間です。お金や人間関係という考えもあるかもしれませんが、これらは時間があってこそのものであり、逆に言えば時間があるからこそ、それを費やすことであらゆるものが手に入るのです。
この時間という貴重な資源をぞんざいに扱われたとき、僕は明確に舐められていると感じるのです。
べつに僕は自分は時間をうまく使えているとは思っていません。ついスマホを見てしまって無為に時間を過ごしてしまうこともあれば、特に予定のない休日を迎えたら何もしないまま夜になっていた、なんてこともしょっちゅうあります。
ただしこれはあくまで自分の選択であり、自ら好んで時間を無駄遣いしているだけです。そこに責める相手はいませんし(強いて言えば自分を責めるくらい)、だれの迷惑にもなっていません。気に入らなければ自分で改善すればよいだけです。
例えば、今回書いた競馬記事を最初からブログに書くつもりで書いていたとしましょうか。このとき、書いたものを載せるか載せないかは完全に自分の判断です。面白くないと思えば載せなくてもいいですし、あるいは気になるところを直して載せても良いでしょう。載せない場合は書くのにかかった時間が無駄になってしまいますが、自分の判断なら納得できます。
しかし、ここに他者という要素が加わってくると話は変わります。
当然ですが、なんのために書く文章かで文章の書き方は変わってきます。極端な話、仕事でメールを送るときと、日記を書くときの文章とが同じはずはありません。
それこそ、こんなインターネットの孤島みたいな場所で書いているだけなら好き勝手オナニー文章を書き散らしておけばよいですが、より多くの人に読んでもらう文章となると、思うままに書きなぐるだけでは成立しないでしょう。
展開がわかりやすいように、時には平易な表現を使ったほうがいいでしょうし、過度な下ネタも控える必要があります。あと僕は自分の文章にしょうもないツッコミを入れられるのが死ぬほど嫌いという厄介な病を抱えていますので、より頑強な文章となるよう資料を漁って補強をする必要もあります(過去に電車と汽車の違いを突っ込まれて発狂しそうになった)。
そうなると、普段文章を書くのにかける時間よりもさらに多くの時間を費やす必要が出てきます。これはより良い文章に仕上げるために必要な時間がどうというわけではなく、単にどこに合わせて最適化するかという話です。
どこに合わせて最適化するか、それにどれだけ時間を費やすのか、それがつまり相手のために使う時間となります。いうなればこれは相手のためにかける時間というコストです。これは相手がいなければ発生し得なかったものであり、コストに対して対価が得られないというのであれば、自分だけコストを払うのは馬鹿らしいものです。
ここで掲載料という要因がちょっと邪魔になりますが、今回の場合はそれ以前の問題なので一旦脇に置いておくことにします。今更ながら例えが悪かったかもしれません。まあでも肝の部分は伝わっていると信じておきます。
あと勝手に対価とか期待してんじゃねーよという意見もあるかもしれませんが、与える一方だとしんどくなるのが人間関係なので、どんな形であれやはり対価があるがある方が健全だと思います。
要するに、相手に合わせて掛けた時間をフイにされるような態度を取られると、どうしても大事にされていないと感じる=舐めてんじゃねーぞ…的な感情を抱いてしまうよねという当たり前すぎる単純な話なのですが、冗長になってしまいましたね。悪い癖です。
正直、載せてもらえるという話になったときはかなり嬉しかったのですが、こんな対応されるくらいなら最初から拒否されるか、原稿送った段階で面白くないからボツってバッサリいってほしかったですね。こんな舐めた終わりになるとは…。
舐められることをなくすためにも、もっと自分の時間を大切にして、大切にしてくれる人たちと生きていくべきなのでしょう。
これは有意義な30代云々だけに留まらず、より良い人生を生きていくために言えることのような気がします。
・ゲーム新時代
昨年11月、これまで10年以上使っていたPCが急に立ち上がらなくなりました。電源ボタンを押してもファンがふぉーんと間抜けな音を立てて少し回るだけで、OS起動はおろかBIOSの画面すら立ち上がりません。
ですが僕は全く焦っていませんでした。
なんてったって僕は高校・大学とバリバリの理系として過ごし、果ては大学院にまで進んだ男ですからね。そもそも、PCだって自作で組み立てたものです。ここはいっちょ、サクッと修理して男としての格の高さを見せつけてやるとしましょうか。
1時間後。
そこにはPCのケースを開けるだけ開けて、途方に暮れている男の姿がありました。
ば、ばかな…!僕は理系の院卒様だぞ!?PCの不調ごときが直せないなんて、そんなことがあっていいのだろうか。(いや、ない)(反語)
しかし、よく考えるまでもなくPCの修理と学歴には特に因果関係はないですし、そもそも自作と言っても高校時代の友人に丸投げして組んでもらったものなので僕は中身をよく理解していません。修理できないのも当然の話でした。
インターネットとかいうチンピラツールを使って色々調べてみたところ、どうやら電源が怪しいらしいことをなんとか突き止めることが出来ました。普段は嘘にまみれているインターネットですが、たまには役に立つようです。
電源を交換すればまた動くようになる可能性があるようでしたが、聡明なる僕は新たな選択肢を探し当てていました。
それは新しいPCを購入するということです。
聡明と言っておきながら、導かれた結論の平凡さに戦慄するばかりですが、要するに「もう10年以上も使ってるんだし、他のパーツもヤバそうだからここらで一気にあたらしくしようぜ!」というだけです。
ちょうど良い感じのスペックのPCがセールになっていたこともあり、僕は音もかくやというスピードでおニューのPCを注文したのでした。
それから約2週間後、待ちに待ったnewPCが我が家にやってきました。
新しいPCを導入した僕が最初に行ったこと、それはKomiflo(ワニマガジンの提供するエロマンガ読み放題サービス)の閲覧でした。
これにはもちろん理由があります。理由がないことをすることもよくありますが、これに関しては明確な理由がありました。
先のPCが急逝してから新しいPCが来るまでの2週間、僕はもう二十年ぶりにもなる自宅にPCがない環境を味わっていました。こうなると困るのはなにか。それは満足にインターネットが見れなくなることです。
もちろん僕はスマホを持っています。ちょっとtwitterを見るだけのはずが、気がつけば二時間経っていた、なんてこともザラにあるくらい普段からガッツリ触っています。しかし、しかしそれでも、僕はスマホでエロコンテンツを見ることはありませんでした。なぜなら、こんな小さな画面でエロコンテンツを見たところで、十分な満足は得られないし、どう考えてもPCがあるならPCモニターの大きな画面で見たほうが楽しいに決まっているからです。
そんな僕が2週間もPCがない環境に置かれたらどうなるでしょう。
当初は2週間くらい我慢できるだろう、我慢できなくなっても最悪スマホで紛らせたら大丈夫だろうと軽く考えていました。
しかしPCを失って数日経った頃、快楽天の最新号が更新されたとあって我慢できずにKomifloにアクセスした僕は愕然とします。
「び、びっくりするほど心が動かない…!?」
そう、普段はあれだけ楽しんで読んでいた快楽天が、どれだけ読んでも驚くほどつまらないのです。作品が悪いのかとも思いましたが、作者は僕がもう何度もお世話になっている大先生です。普段であれば抜けないはずがありません。それもPCが使えなくなってから一回も抜いていない状態です。抜けないほうがおかしい。
なぜこんなにも楽しめないのか。普段との違いはなにか。それは考えるまでもなく明白でした。
スマホです。スマホの小さい画面だから駄目なのです。あの感動を、素晴らしいエロスを感じるためにはこんな小さな画面では狭すぎるのです。
こんな状態で読み進めては作品に対しても失礼です。そうして僕は、新しいPCが来るまでKomifloを、ひいてはエロコンテンツの全てを封印することに決めたのでした。
そして今、新たなPCは誇らしげにKomifloのページを開いています。
やはり大きな画面で読むエロマンガはとても心躍り、とても艶やかです。僕は大満足の中で2週間分溜めていた作品たちを、2週間分溜めていた己を、心ゆくまで楽しんだのでした。
とまあ気がつけばエロマンガの話になってしまっていましたが、こういうのを書きたいんじゃなかった。本当はゲームの話を書こうと思っていたんだった。というか、せっかく新しいPCを買ったのに真っ先に開いたのがエロマンガて。我ながら情けなくなってきます。こんな大人になりたかったはずじゃないのにな。げに恐ろしきはエロマンガの妖しき魔力よ。
そんなわけでめちゃくちゃ強引ですがゲームの話をします。
新しいPCが割りと良いグラボを積んでいることもあり、なんかゲームをやろうと思っていたのですが、迷っているときに見た「Cyberpunk: Edgerunners」というアニメがブッ刺さり、原作である「Cyberpunk2077」の購入を決定。見事ゲームの方もガッツリハマってしまうという状態に陥ったのでした。
いやー、それにしても最近のゲームって凄いんですね。つい爺みたいなこと言ってしまいましたが、思わず感嘆詞から始めてしまうくらいには心動かされる凄さです。
なにが凄いって、まず目につくのはグラフィック、そして魅力的なゲームシナリオに自由度の高さですよ。
「Cyberpunk2077」のグラフィックはまるで現実にそんな場所があるのではないかと思わせてくれるくらいリアリティ溢れるもので、僕なんかはプレイ開始後しばらくはナイトシティ(ゲームの舞台となる街)を歩き回るだけで1時間、2時間は余裕で過ごせてしまった程です。
そしてそんな街で繰り広げられる人間模様。
もちろん、本作はストーリーのあるゲームである以上、明確なエンディングが存在します。基本的にはこのストーリーをなぞる形でゲームシナリオを進行していくことになるでしょう。
しかし、このゲームの魅力はメインシナリオ以外のところにあります。主人公のV(ヴィーと読む)はナイトシティで過ごす中で、様々な人達と関わりを持つことになります。困っていそうな人にこちらから声をかけることもあれば、向こうから助けを求める連絡が来ることもあります。もちろん、Vの選択いかんによって、その後の展開が大きく変わります。サイドジョブと称されるこれらのストーリーはメインシナリオにも影響を与えることもあるほどです。
そんなサイドジョブが、実にワクワクする形で生半可なプレイでは遊び尽くせないほど展開されているのです。
「Cyberpunk2077」はタイトルにもあるように2077年という未来の世界が舞台です。
ゲーム内の2077年はサイバーウェアと呼ばれる機械を人体に取り込んだ人体改造が一般的になっています。人の記憶を追体験できる技術や、ネットワークに人格ごと接続する能力を持った人がいたりします。
そんな世界を描くにあたり、サイドジョブは実に様々な未来の可能性を提示してくれました。
ある事件では外部から記憶を改変され、自覚のないうちに洗脳されている人物が登場します。また、別の事件では自我に目覚めたAIから依頼を受けることもあります。かと思えば、サイバーウェアで強化された身体で純粋な喧嘩をしようという誘いを受けることもあります。
これらのサイドジョブたちはどれもが、あるかもしれない未来の姿を描いてくれており、素晴らしいグラフィックも相まって、実に説得力のある形でゲームを彩ってくれています。
あまりの楽しさに、僕自身メインシナリオそっちのけでサイドジョブばかり進めてしまったほどです。
一応メインシナリオはクリアしましたが、まだまだ「Cyberpunk2077」の世界を、ナイトシティを遊び尽くせたとは思っていません。一回クリアした程度では色褪せないほどの魅力がこのゲームには詰まっていました。
ハッキリ言って街中をドライブしているだけでも楽しいゲームですからね。本当にすごい。いいグラボにしといて良かった。
僕のおすすめはボディヒート・ラジオを流しながら夜の街を気ままにドライブです。タイミングが良ければ「Cyberpunk: Edgerunners」でも象徴的な「I Really Want to Stay at Your House」が流れてきて実に落ち着く時間となるでしょう。
あとは年明けから透き通るような世界観で送る学園RPG「ブルーアーカイブ」を始めたりしています。
こちらはおもくそキモオタ向けのソシャゲなのですが、これにもあっさりハマってしまいました。
僕は未だにパズドラをやっているような硬派な男ですので(ランクは1024)、こんなかわいい女の子たちがキャッキャやってるような軟派なゲームにはハマるはずがないと自分では信じていたのですが、昨年末に行ったコミケにて掲示されていたブルアカの広告に一目で心奪われしまい、即座に陥落。気がつけば手元のスマホにはブルアカのアイコンが表示されてしまっていたのでした。
最初は「コミケに広告出してるくらいだし、可愛い女の子で釣るだけの凡俗なソシャゲやろ?」とか思っていたのですが、プレイを進めるうちにこの考えはあっさりと砕け散ることになります。
これ…、シナリオ結構面白くね…?
そうです。ブルアカは僕が思っていたよりも遥かに真っ当に面白いゲームだったのです。
面白いゲームと言ってしまうと少し語弊がありますが、少なくともシナリオ面に関してはそんじょそこらのギャルゲーと並べても遜色のない、むしろトップクラスとも比肩しうるくらいの出来栄えと言って良いと思います。比較対象がギャルゲーなのが自分でもよくわかりませんが、どうやら僕の中ではギャルゲー>ソシャゲという図式が成立しているようです。
基本的に地の文が一切なく、台詞の掛け合いのみでストーリーが展開されていく一昔前の2ちゃんねる(僕は5ちゃんねると呼ばずに2ちゃんねると呼ぶことでアイデンティティが保たれると本気で信じています)でよく見られたSS形式なのが少しネックですが、それを補って余りあるほどの王道で熱いストーリー、考察のしがいがある一癖も二癖もありそうな設定たち、そしてそんな世界をこれでもかと動き回るキャラクターたちと、三拍子揃ったゲーム体験には思わず舌を巻いてしまいます。
あと忘れてはいけないのが、そんなシナリオを盛り上げてくれる数々のスチル。四拍子になってしまった。
特に最近公開された最終編「あまねく奇跡の始発点」はシナリオが素晴らしいのはもちろん、ソシャゲという媒体を見事に活かしきったゲームデザインとなっており、買い切りのコンシューマゲームとはまた違った極上のゲーム体験を味わうことが出来ました。
これまでの総決算と言わんばかりに、キヴォトス(ゲームの舞台となる学園都市)の各勢力が手を取り合って世界の危機に対抗するというシナリオにリンクするように、全プレイヤー参加型のレイドバトルが開催。そのレイドバトルが終了するとそのまま新シナリオが公開され、息もつかせぬままに物語のラストまで導かれる…。と、ソシャゲならではのリアルタイム性をひしひしと感じさせてくれる展開には目をみはるものがありました。
シナリオだけならvol.3「エデン条約編」もかなりのものなのですが、やはり今だけ味わえる楽しさという要素が加わると、どうしても最終編の方に軍配があがるでしょう。これには、ソシャゲとSNSでの共有文化の親和性の高さも関係してきます。
ブルアカは先月で2周年を迎えたとあって、ここ最近は特に異様な盛り上がりを見せています。twitterのトレンドに入ることも多いですし、2ちゃんねるのブルアカスレの勢いは平日昼間でも1万を超えていることがあるという驚異の数字を叩き出しています。
僕は常々、馴れ合いは心の弱い愚者のやることであり、僕のように立派な心を持つ賢者は孤独に己を高めていくものなのだと固く信じていました。しかし、我が身を顧みてみれば、普通にtwitterでつぶやいたりしてるし、2ちゃんねるにも未だに書き込んでいます。いいねが貰えたときは普通に嬉しいし、レスが付いたときにはニヤニヤしてしまいます。僕は自分が思っているのとは正反対の人間でした。承認欲求の魔の手からは逃れられなかったのです。
そんな人並な僕ですから、盛り上がっている輪に入って楽しくないはずがありません。最終編を読み終えた僕は、自分の考えをまとめると即座にスレオン(2ちゃんねるのスレッドに参加すること。覚えておくと人生で2回くらいは役立つかもしれない)、熱気冷めやらぬプレイヤーたちの中へと飛び込んでいったのでした。自分の意見と他人の意見ぶつけるのおもしれー!
ブルアカの魅力を牽引する重大な要素が、キャラクターたちの可愛さにあることは誰も反論できないでしょう。そもそもキモオタがゲームにハマる理由なんて「かわいいキャラクターがいるから」だけで十分っちゃ十分なのですが、ブルアカはこのかわいいキャラクターが特に多い。
学園都市が舞台となっているだけあって、様々な学校が登場するのですが、そこからさらに、各校の生徒会や部活、果ては学外で活動する集団まで実に様々なグループが展開されています。
そんなキャラクターたちが時には大きな物語の中で、時にはグループ間の関わりの中で、時には先生(プレイヤー)とのやり取りの中で、魅力的な表情を見せてくれるのですから、これはもうハマらない道理がありません。
そしてそうなると当然、好きなキャラクター、好きなグループが出てきます。
誰にも聞かれていないのに勝手に答えますが、僕の場合は便利屋68のアルとゲーム開発部のモモイが特に好きです。空回りするアルちゃんを温かい眼差しで見守りたいし、モモイとミドリの姉妹と一緒に夜通しクソゲーをしたい。だれか俺をキヴォトスに連れていってくれ。
ソシャゲで好きなキャラクターとなると、切っても切り離せないのがガチャの話題です。
人類の所有欲は尽きることなく、それはソシャゲの世界においても同じことが言えます。自分が欲しい物のために何を出せるのか。欲と欲の等価交換。ソシャゲを続ける以上、この命題からは逃れられません。
もちろん、ブルアカにもガチャはあります。天井があるというのが救いですが、通常時は最レア率が3%と、なかなかに厳しい数字のガチャです。
そんなガチャに先日、僕が好きな便利屋68のキャラクターたちの正月衣装ver.が実装されてしまいました。それも4人いる便利屋68の全員が、です。
僕はこのガチャを目当ての4人が揃うまで引きました。
天井に助けられたこともあり、想定よりも少ない回数で揃えることが出来ましたが、引いている最中は気が気でありませんでした。次の10回で出てくれ!次の10回で出てくれ!なんどこう思いながら画面をタップしたことでしょう。
今回はありがたくも、想定より少ない回数で揃いましたが、毎回こううまくいくわけではありません。想定より遥かに多くの回数ガチャを引くこともあるでしょう。そして、それだけ回したにも関わらず、目当てのキャラが出ないこともあるでしょう。その時僕はどうするべきなのか。ソシャゲにハマるとはそういうことなのです。
まあでもこういうことに悩み続けるのがキモオタのあるべき姿なのかもしれませんね。僕はキモオタじゃないですが。
最後に自慢なんですがPSVR2を買いました。もう一度言います。PSVR2を買いました。
定価が74980円(税込)ということで、PS5本体よりも高い周辺機器ってなんなんだよ…とも思いましたが、予約抽選受付開始と同時に申し込み。
VRゲームは未体験だったので純粋にやってみたい気持ちがありましたし、なによりも同時発売される「Horizon Call of the Mountain」をやりたすぎたからです。
先述した「Cyberpunk2077」の前にハマっていたのが未来の世界で機械獣と戦い、世界の秘密を解き明かしていく「Horizon」シリーズでした。。シリーズ一作目である「Horizon Zero Dawn」、その続きを描いた「Horizon Forbidden West」ともに大好きで、PS5だって「Forbidden West」を遊ぶために買ったものです。というか他のゲームで遊んだことがないので僕のPS5は「Horizon」専用機と言っても過言ではありません。
「Horizon」の魅力は語り尽くせぬほどありますが、特に僕が好きなのがシリーズを通して登場する大型の機械獣サンダージョーです。
ティラノサウルスを思わせる巨体に数々の兵器を纏ったその姿は純粋にカッコよく、僕はひと目で心奪われました。しかも、サンダージョーはカッコいいだけではありません。その戦闘も心躍るほど楽しいのです。身体に付けた多彩な兵器から繰り出される攻撃は、生半可な反撃を許さぬほどに暴力的で、緊張感のある戦いを提供してくれます。
あまりの楽しさに、一時期の僕は毎晩寝る前にサンダージョーと戦ってから布団に入ることを日課にしていたほどです。
そんな「Horizon」がVRゲームになった、しかもサンダージョーとも戦えるというのですから、これはもう遊ばないという選択肢は考えられません。高速のマウスさばきでPSVR2の予約抽選を行ったのでした。
ありがたいことに抽選には的中し、発売当日の2/22に遊べることになりました。
2/22は完膚なきまでに平日でしたし、普通に仕事もありましたが、そんなことは「Horizon」の前では些細な事です。宅配便が到着するとすぐに、僕は業務用PCを窓から放り投げ、ヘッドマウントディスプレイを被ってゲームの世界へと飛び込んだのでした。
おお!これがVRか!
30分後…。
そこには満足にチュートリアルを終えることすら出来ないまま、酔い過ぎて息も絶え絶えになりながら布団に横たわる僕の姿がありました。
VRスゲー!めっちゃ酔う!!
そうです。懸念しつつもまあ大丈夫だろうと、根拠のない自信のままに目をそらしていたVR酔いに、僕は直面していたのでした。それにしてもこれほど酔うとは…。
ゲーム開始時点では全くそんな気配は無いんですよ。どころか、「Horizon」の世界が、あの美しくも滅びの気配を感じさせる雄大な景色が、目の前だけでなく自分を取り囲むように存在していることに対して感動を覚えるほどです。
でもプレイ開始10分、20分ほど経つとだんだん感動よりも違和感が勝るようになってきます。当然、そんな短時間では遊んだ気分にもなれないので違和感を無視してプレイを続行するわけですが、そうなると30分ほど経った頃に強制リセットが掛かったかのように身体が言うことをきかなくなります。
これが前述の通りめちゃくそに酔った状態なわけで、こうなるともうゲーム内で視線を動かすだけで吐きそうになるため、即座にヘッドマウントディスプレイを外すハメになります。というわけで、僕の初めてのVR体験はわずか30分で幕を下ろしたのでした。
その後も2回ほどプレイを試みたのですが、これがまあ改善できない。変な薬でも盛られてるんじゃないかってくらい酔いまくります。
なんとなく原因はわかっているのですが、その原因というのが「プレイしているうちに機器がズレてきてピントが合わなくなり酔ってしまう」という、ゲームをプレイするにあたって絶望的に改善が難しい部分なので頭を抱えています。
なぜこの原因に思い当たったかというと、実際に途中でズレてしまうと感じていたのと、試しにVRエロ動画を鑑賞してみたら全く酔わずに最後まで気持ち良いままだったからです。
いやー、それにしてもVRエロ動画は凄い!思わずこのままVRエロ動画の素晴らしさについて綴ってしまいそうになりましたが、エロ漫画の話に加えてVRエロ動画の話まで始めると、もはや何を書こうとしていたのか分からなくなりそうなので止めておきます。
ただ一言だけ残しておくならば、VRエロ動画はマジでドキドキするし、VRゲーム並みに新機軸の体験を提供してくれる代物だってことです。抜けるとか抜けないとかそんなレベルの話に留まらない。オススメです。全然一言じゃなかった。
去年あたり「そんなに恐いか?新時代が!!!」みたいなことを言ってたキャラクターが流行っていたような気がしますが、僕は恐い。新時代についていけなさそうでめっちゃ恐い。
あとは8万も出して買ったPSVR2が既に半ば置物、あるいはVRエロ動画専用機になりつつある現在も恐い。せめて元を取るためにもう一回自慢しとこ。PSVR2を買いました。
30歳になってからこんなにもゲームにハマるなんてことがあるのかと自分でもびっくりしているのですが、実際楽しいのですからどうしようもありません。別に誰かに迷惑かけてるわけでもないですしね。
最近読んだ本にも幸福かどうかは自分が何者であるかが大事(=他人から評価に依存するな)みたいなことが書いてあったので、こういった自分が素直に良いと思えるものを大事にしていきたいもんですね。それがなにであれ。
自分が良いと思ったものは、即ち自分を構成する一要素なわけですから。後年、この考え方を後悔したときには、本の著者をめたくそにディスってやろうと思います。こうして僕は自己を保つのです。
・AIおえかきをはじめよう
みなさんも御存知の通り、最近のAI技術の発展には目を見張るものがありますね。
twitterなんかを適当に眺めていてもchatGPTを活用した面白いネタの一つや二つは流れてきますし、2ちゃんねるの雑談系の板を覗いてみればAI画像について語られているスレッドがいくつか見つかることでしょう。
先述の通り、おニューのPCを購入した僕はそのスペックを発揮する場所に飢えていました。そこには、せっかく良いPCを買ったのに、そのスペックを十全に使いこなせていないもどかしさと、ひょっとすると僕は身の丈に合わないマシンを購入してしまったのではないか、ひいてはあれだけ悩んで買ったPCがスペックの無駄遣いだった…?という目を背けたいタイプの疑問が湧きつつあったという、なんとも切実な理由がありました。
そこでマシンパワーの矛先として選ばれたのが「AI画像生成」です。
これにはマシンパワーがかなり求められますし、時代の最先端に触れているような感じがしてなんだかカッコいいです。VRでは時代に取り残されそうになっていることも後押しし、僕はこの「AI画像生成」の道を歩みだすことに決めたのでした。
「AI画像生成」というとなんだか大層な印象を与えますが、まあ早い話が理想の2次元画像、もとい理想のエロ画像を生み出してやろうってことですね。一気に卑近になりましたが、実態はこんなものです。
ありがたいことに、昨今はインターネットの賢人たちがツールの導入手順を親切丁寧に解説してくれておりますので、それにタダ乗りする形で速攻インストール。無限に画像を生み出すことができる環境があっさり手に入りました。
しかし、肝心なのはここからです。
というのも、環境が手に入ったからとはいえ、ここから理想の画像がポコポコ勝手に湧き出てくるわけではないからです。画像生成に必要なものは大きく分けて二つ。モデルとプロンプトです。
詳しい話は専門のサイトに任せますが、モデルは様々な画像を学習させたデータの集合であり生成される画像の核となるもの、プロンプトはそのモデルから理想の画像を呼び出すための呪文とでもいいましょうか。イメージとしてはそんな感じです。
厄介なのはこのモデルというやつで、こいつはその特性上、学習に大量の画像を必要とします。そのために利用される画像たちについては、やれ著作権がどうのこうの、無断利用がどうのこうのと、喧々諤々の議論が繰り広げられている段階です。
ですが実態は悲しいもので、各々が作成したモデルを配布する類のサイトに目を通せば、そこに現れるのは明らかにダーティなデータの数々。全部が全部真っ黒というわけではありませんが、酷いやつになると著作権を無視せずにどうやって作れというのかってレベルの反社会的なモデルまであります。どっからどうも見て版権キャラ、というかブルアカのキャラが!ヘイローまで再現されて!!なんか脱がされてる!!!なんてこともザラにあります。
当然、これには普段は温厚な僕も怒髪衝天。
これはいかんでしょ。理想の画像を生み出すためとはいえ、版権キャラをそのまま使うのは冒涜でしょ。あんな透き通った世界で活き活きと動いているキャラクターたちを脱がすのは違うでしょ。というか、そもそもそういうモデルを作っちゃダメでしょ!!!
義憤に駆られた僕が即座に行動に移したのは言うまでもありません。
そんな訳で、いま僕のPCの中には大量のブルアカキャラの画像が保存されています。
いや、違う。違うんですって。ほら最近はブルアカ人気がすごいから!ブルアカ絵描いてる人も増えたから!そりゃ僕のHDDの容量も圧迫されるってもんですよ。まあ確かにちょっと画像内に占める肌色の割合は多いかもしれませんが、そういう画像だっていっぱい描かれているから!だから普通!そう僕のPCの容量が爆速で増えていったのも普通のことなのです。ちょっと手とか指がおかしい画像が多い気がするのは、まあ気のせいということにしておきましょう。
そういった事情もあり、最初はimg2img(元画像の要素を引き継ぎつつ、新たな要素を足し合わせる技術)で友人の顔写真を改造して本人に送りつけるという、牧歌的な遊びに興じていただけの僕でしたが、気付けばいつの間にかガンガン画像生成を楽しむまでにハマってしまっていました。あまりの楽しさに「これは勉強だから!新技術を知ることは仕事にも活かせるから!」と無茶すぎる言い訳を盾に夜通しどっぷりのめり込み、翌日の仕事は全て眠ってやり過ごすという力技を押し通したほどです。
せっかくのツールなのに、まだ強烈なおもちゃとしてしか役立てられていませんが、せっかくならこのまま強烈なおもちゃ路線で楽しみ尽くすのもありなのかもしれません。
ひとまず考えていることとしては、LoRAという追加学習モデルを自作すれば、特定の要素を強く持った画像が生み出せるようになるので、友達の顔写真でLoRAを作成し、コラ画像でも作りまくってやろうかなと。最強に不健全でフケツな玩具の完成です。
良い悪いは別にしても、VRだとかAIのように、自分たちの生活を、楽しみ方を変えてしまうかもしれない技術には触れておくべきなんでしょうね。
実際に触ってみて感じましたが、昨今のAI技術はこれからのコンテンツの楽しみ方を根底から変えうるポテンシャルを持っていると思います。別に中身を知っていなくても楽しむだけなら問題ないのかもしれませんが、より広範により深く楽しむためには、やはり多少なりとも中身を知っておいたほうが良いのかなと。
それに新しいものを知ることを止めると、世界がそこで止まってしまいますからね。「世界を変えたければ、自ら境界を越えろ」とは、僕が一番好きなゲームの標語なのですが、まさかこの年齢になって刺さるとは思わなかった。いくつになっても境界を超えていきたいものです。
・オナニーにローションを使うようになった
はい!出ました!下ネタを言っておけばなんか面白いしオチた感じが出ると思っているやつ!このマインドをどうにかしなければ、いつまで経っても有意義な30代はやってきませんよ!
まあですが実際下ネタは面白いのですから仕方ありません。
幼き日の僕は、大人になれば下ネタで笑うことはなくなり、もっと高尚なもの(ハリウッド映画とかに出てくるようなやつ)で笑うようになる、あるいはお笑いなんかには目もくれなくなり、真面目な本を読んだりする用になるものかと思っていました。
ですがどうでしょう。今の自分を振り返ってみれば、未だに下ネタでゲラゲラ笑っていますし、読むのはラノベか漫画ばかり。ハリウッド映画は別に高尚なものを扱っていたわけではなく、当時の僕が理解できていなかっただけで、むしろ下品なネタばかりだと今では知っていますし、むしろそういうネタのほうが好きという有様。
なんだか思い描いていた大人像からは随分遠いところに来てしまった気がします。
流石にある程度成長し、中学生、高校生になった頃には歳を取るだけでは人はそう変わるものではないと理解しましたが、それでもどこかで自分は立派な人間になるだろうと根拠のない思い込みをしていた節があります。
そんな将来予想は虚しくも外れ、当時から大きく変化することのないまま今に至るわけですが、そんな僕にも大きく変化した点が一つだけあります。
それがタイトルにもあるオナニーにローションを使うようになったということなのですが、我ながらよくもまあこんな汚い報告をするためにゴチャゴチャと御託を並べたものだと思います。
恐ろしいことにタイトルでの出オチではなく、この項目もしっかり拾っていきます。
前回の日記の最初に、30歳になったからといってなにかが変わるわけでもないということを書きました。
これは概ねその通りなのですが、一点だけ、嘘をついてしまっていたところがあります。
それが本項にも関係する「ちんぽが勃ちにくくなってしまった問題」です。30歳になった僕に訪れた変化、それはふにゃチン化と、それに伴う性欲の減退でした。以下、汚い話が続きます。
中学生、高校生の頃の僕は貪欲な男でした。
インターネットでいくらでもエロ画像・エロ動画が入手できることに気がついた僕は、2ちゃんねるの女神板を巡り、CPZオンライン、YourFileHostといったエロ動画の大海を渡り、果ては違法アップロード間違い無しのエロ同人サイトという魔窟を訪れる中で、至高のエロコンテツを探し求めていました。
険しいこともたくさんありました。一回クリックしただけなのに3つも4つもポップアップしてくる広告。なぜか5つも並んでいるのに正解は一つしか無いリンク。少しドキリとさせられた「会員登録完了」の文字と明らかな詐欺ページ。
今にして思えば、そんな困難に揉まれながらも毎晩インターネットに明け暮れたあの経験は、僕にネットリテラシーというものを授けてくれたような気がします。そして、それ以上に、自分の好きなものは何なのかを明らかに、あけすけに言えば、性癖を確固たるものにしてくれたのだと思います。
当時の僕は精神的には未熟でしたが、リビドーだけは一人前以上にありふれていました。とはいえ、そのリビドーをぶつける相手はいません。自他ともに認めるほどの暗黒の学生生活を送っていた僕が取れる手段は一つだけでした。当然、オナニーです。
あの頃は毎日シコっていたのは当然として、日によっては2回、3回と平気でシコっていました。あまりにシコりすぎた日なんかには、ゴミ箱のティッシュの多さを母親に感づかれるのを嫌うあまり、シコティッシュを隣家の屋根の上に放り捨てていたほどです。血気盛んな時分の話ですので、どうか時効ということにしてください。すまん、隣の宮井さん。
そんな僕が今ではどうでしょう。
シコるペースは日に二回どころか、週に二回といったところ。毎日シコっていたあの日は遠く、本当に自分は毎日シコっていたのだろうかと自らの記憶を怪しんでしまうほどです。
オカズ選びの時間も激減しました。
あの頃はそれこそ、文字通り夜通しオカズ探しに奔走、理想のオカズが見つかった頃には日が昇っていたなんてこともよくありました。それが最近ではオカズ選びにかける時間は長くて30分程度、酷いときには5分でサクッと決めてしまいます。技術やサービスの発展により、オカズが見つけやすくなったというのもあるでしょうが、それ以上に自分の中の情熱の火が弱くなっているのだと感じます。
これらの事象は、ある一つの問題によって引き起こされたものでした。
それが、一番大きな問題である「ちんぽが勃ちにくくなってしまった問題」です。
これは本当に恐ろしい。
去年辺りから、うっすらと「なんか最近勃ちがわるいかも…?」と思い始めていたのですが、今年に入ってからは特にそれが顕在化しました。10年前はモース硬度11を誇っていたはずの息子でしたが、そんな栄光は過去のもの、今となってはせいぜい7か8といったところでしょう。もう明らかに違いますからね。握ったときのグリップ感がぜんぜん違う。芯が入っていない。
こんな状態でするオナニーが楽しいはずがない、というかシコろうにも勃つもんが勃たなければどうしようもないわけですから、これはもうオナニー以前の問題です。幸か不幸か、全く勃たないというわけではなく、良いオカズを得た際には一応勃ってくれるのですが、どうしたって満足度は低いものとなってしまいます。そんな状態が続くとオナニーの魅力はどんどん色褪せてしまい、オカズ探しへの情熱やオナニー自体への探究心は失われてしまいます。これはもう人生が失われつつあるのと同義です。
そんな失意の底ある僕を救ってくれたのがローションでした。
もともとそのポテンシャルは知っているつもりでしたが(なぜならオナホを使うときにはローション必須だから)、そんなものは僕の思い上がりでしかなく、実際にはローションは僕が思っていた遥か上を行く、人類の叡智の結晶とでも言うべきアイテムだったのです。
あまりしっかり描写しても生々しくなって悍ましい文章が生み出されてしまいそうなのでザックリと書きますが、ローションを使ってオナニーをするだけで明らかにQOL(Quality of life)が向上しました。僕はどこかで、ローションとはオナホと一緒に使うものだという固定観念に囚われていたのですが、それは大きな誤りだったようです。
ローションは手だけでも気持ちがいい!齢30にして、僕は人生で大切なことに気がつけたのです。
たしかに、片付けが面倒(ちんぽがベタベタになるから)という大きめのデメリットこそ存在しますが、それを補ってあまりあるほどの充実感をローションはもたらしてくれました。
気持ちが良いと気分も良くなるもので、なんとなく毎日が少し楽しくなったような気がしてきます。柔らかくなりつつあった息子のモース硬度も10くらいにまで回復、世界は急速に色を取り戻しました。
ローションはオナホとセットで使うもの。
そんな思い込みを捨てるだけでこんなにも変わるのですから、人生とは分からないものです。
これまで培ってきた経験を活かすことはもちろん大切でしょう。どんなことでも一朝一夕に身につくものではありません。30歳にもなれば、長い時間をかけて自分の中に定着させたものだって当然あります。
ですが、ここいらで一歩立ち止まり、フラットな目線で改めて物事を見つめ直すことも必要なのではないかと思います。かつてアインシュタインはこう言ったそうです。
「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」
であれば、30歳になるまで積み重ねた、いや積み重ねてしまったコレは一体何になるのでしょう。
有意義な30代を過ごすために、さらにその先も人生を有意義なものとするために、色々と自分の在りかたを考え直す時期が来ているようです。
こうやって書き出してみると、何気ない日常にも自分を振り返る要素はたくさん潜んでいるものですね。まあほとんどこじつけみたいなもんでしたが、文章にしてみると自分への理解が深まったような気がします。
こんな調子じゃ、有意義な30代なんてほど遠いや。
【30歳になってしまった僕は】~「推し」の卒業~
いずれこの日が来るとは思っていましたが、いざ迎えてみるとあっけないものですね。30歳になるというのは。
そう、気がつけば僕はいつの間にか30歳になってしまっていたのでした。
30歳ともなると、世間一般ではもういい大人として扱われることでしょう。職場では「若手」の称号が外れ、「中堅」どころに足を踏み入れる頃です。家庭を持ち、良いお父さんになっていてもおかしくありません。
僕自身についていえば、難しい仕事も任されるようになり、いつの間にか後輩が慕ってくれるように。家に帰れば新妻(21歳。きれいな黒髪でメガネがチャーミング。背は低め。)と生まれたばかりの子供(4ヶ月。母親似の可愛い女の子。)が出迎えてくれ、当然ブログを更新する時間なんて到底確保できない…、というのは真っ赤な嘘で、相変わらず代わり映えのない生活を送っています。
仕事をある種のベーシックインカムと捉えている僕がやっていることといえば、ブルシット・ジョブの教科書に載りそうなことばかりですし、取れと言われた資格なんてもう2年くらいのらりくらりと躱している始末。同僚たちが順調にステップアップしていく中で、下手すれば後輩にも抜かれてしまいそうなほどです。当然、結婚の気配なんてビタイチありませんし、そもそもテレワークなので帰る家もなければ出迎えてくれる誰かすらいません。なんか書いていて悲しくなってきましたね。
冷静に考えれば、30歳になったからと言って生活が急変するようなことになるはずもありません。突然魔法が使えるようになっただとか、異世界から妖精がやってきてハーレムを築いたとかがあれば少しは楽しめるのでしょうが、そんな気配は1ミリもなく、目の前にはただ平凡な日常が横たわるばかり。
とはいえ、全く刺激がないわけではありませんでした。
去年の1月頃、「そろそろ30歳になるし、資産形成とかしっかり考えないとなあ」とふと思い立ち、いくらか株を買っていたのですが、これがまさかの大暴落。
全く不必要な刺激の到来に僕の心は千々に乱れることしか出来ませんでした。なんで?なんで買ったら下がるの…?
しかも株を買った当時の僕は非常に強欲なことに3倍レバレッジETFという、通常の3倍の値動きをする株を買っていました。3倍の威力は凄まじく、値上がるするときは爆発的な威力を発揮しますが、当然値下がりするときも3倍です。恐ろしい勢いでゴリゴリと削られていく評価額を、僕は指を咥えて見ていることしか出来ませんでした。損切りするのも、それはそれで怖かったのです。
あまりの下がりっぷりに恐れ慄いた僕が取った選択は、「証券口座を見ないようにする」という現実逃避極まったものでした。ですが、そこには少しの勝算がありました。というのも、以前インターネットで「株で儲けている人に多いのは、買ったことを忘れた人か、死んだ人である」という情報を見たことがあったからです。
この日記を書くに当たり、さきほど現在の株価を確認してみたのですが、一番ひどいやつには「-80%」という輝かしい成績がつけられていました。買ったときの1/5です。まあ人生なんてこんなもんですね。
このままではロクな30代を送れない未来が確定してしまいそうなので、今日の日記では最近の生活を振り返り、有意義な30代を過ごせるようになる方策を考えていこうと思います。
ぶっちゃけて言えば、何度かブログに書こうと思ったまま、ずっと書くのを先送りにしてきた内容をここらで一気に書ききっておこうという、そういう日記です。
いやー、ホント自分の先送り癖が恐ろしい。この日記も2月末に書こうと思い立ってから、実際に書き始めるまでに2週間かかりましたからね。完成させるのには更に2週間かかった。しかもこの一ヶ月間忙しくて書く暇がなかったとかではなく、ゲームとネットにどっぷりという実に無為な時間を過ごしていただけなので目も当てられません。
有意義な30代を過ごすためには、一番最初にこの先送り癖をなんとかするべきなのかもしれませんね。
あと、いざ書き上げてみると一日分にしては文章量が多すぎたので分割しています。よく考えると、日記を分割するって意味がわからなくなってきますが、僕がそうしようと思ったらそうなるのです。ここは僕のブログです。
・「推し」の卒業
前回の日記で「推し」に対するにちゃにちゃした好意を綴りまくっていたのですが、その「推し」は日記を書いた2ヶ月後にあっさりと卒業してしまいました。
日記を書いた時点で"その日"が来ることは覚悟していましたが、まさか日記を書いてから最初に卒業を迎えるメイドさんが「推し」だなんて…。あまりのことに絶望した僕は即座にメイドカフェの買収を画策、以てメイドさんたちを手中に収めようと考えたわけですが、そんなことをしたところで普通に「推し」は辞めていくだけだし、別にメイドさんが手に入るわけでもないので諦めました。というか普通に無理だしな、買収とか。
卒業告知ツイートを見たときは結構悲しかったものですが、悲しんでばかりではいられません。どうやら急な卒業決定だったようで、出勤日はもうラスト1日のみ。しかも、そのラスト1日も時短での出勤で、開かれるはずだった卒業イベントもないとのことでした。あまりの急な辞めっぷりに、なにか暗いものを感じたような気もしましたが、そこにはギュッと目を瞑り、"その日"を最高のものとするべく、僕はない頭を必死に捻ったのでした。
先に白状しておくと、僕は「推し」とどうにかなりたいと思っていました。このどうにかなりたいにはあらゆる意味が込められていますが、最低でも今後連絡を取れるようにはなりたいと思っていました。最高は付きあってオタク話をし、もっと懇ろになることです。懇ろというか、有り体に言えばセックスです。セックスな。こういうことを臆面もなく言える僕は結構男らしいと思います。人によってはこれをただただ気持ち悪いと評するのかもしれませんが。
どうにかなりたいとは思っても、所詮は客と店員です。この関係をどうにかしたいと思うだなんてきっと烏滸がましいことなのでしょう。黙って卒業を見送るのが良いお客さんだってことはよく分かっています。でも僕はこのまま終わらせたくはない…。
前回の日記で自問した問いに答えを出すときが来たのです。
いざ別れというその時、僕はいったいどう振る舞うべきなのか。
いざ迎えた卒業の日、僕は仕事を休んでメイドカフェにいました。
「推し」の卒業日は思いっきり平日で、それも普段より早い時間帯の勤務になっていたからです。ですが、その程度のことでは僕は動じません。
当然のように有給を取得し、しこたま買い込んだプレゼントを用意して店へと赴いたのでした。自分で言うのもなんですが、僕が用意したプレゼントの量は中々のものです。以下に列挙します。
・中山式快癒器
・野菜スープセット
・ペンケース
・ケーキ
・花束
今にして思えば中山式快癒器は若い女性へのプレゼントとして適切かどうか疑問、というか女性にマッサージ器具をプレゼントすることにセクシュアルハラスメント的な何かを感じてしまいそうなところですが、あのときの僕は真剣にこれがいいと思っていました。テンションとしては沙村広明先生の名作短編「おひっこし」で、主人公サチが愛する赤木さんへのプレゼントとして中華ナベを買ったシーンと同じです。分からない人はおひっこしを読んで下さい。
あと、それぞれバラバラに準備していたときは意識できていなかったのですが、これらが一箇所に集まるとまあ重いしデカい。「僕はほんとうにこれを渡すのか?否、これはもはや押し付けなのでは?」そんなことを考えながら店の扉を開けたのを覚えています。
「推し」の出勤時間前に入店したのですが、既に店内には二人のメイドさんがいました。二人とも僕とよく話してくれるメイドさんです。僕の「推し」が今日で最後だと理解してくれているので、「一番乗りですね」なんて雑談をしながらその時が来るのを待ちました。
そして、「推し」と会える最後の時間がやってきました。
その日も「推し」は圧倒的に輝いていて、今日で最後だなんてとても信じられません。ですが、「推し」目当てに訪れる他の客たちが平日だというのにどんどん席を埋めていく光景を見て、やはり今日で最後なのだと実感しました。
プレゼントを渡すと、その量の多さやラインナップに少し笑われました。そんな何気ないやり取りも今日が最後です。そう思うと少し悲しくはなりましたが、この悲しさすらもいつかは良い思い出となるのでしょう。せめて今を噛み締めよう、でも叶うならどうか時間よ止まっておくれと願いながら、最後の楽しいひと時を過ごしたのでした。
嬉しかったことが一つあります。卒業日のためかお客さんが多すぎて、「推し」と話せる時間は殆どなかったのですが、最後の最後に、僕と話すための時間を確保してくれていたのです。しかも本来の勤務時間を延長してまで、です。これを幸せと呼ばずして何と呼ぶのでしょうか。
他のお客さんへの対応をすべて終え、邪魔するもののいない環境で用意された僕のためだけの時間。それはとても甘美なもので、そんな時間を用意してくれたという事実だけで僕はもう大満足でした。何か改めて話そうかとも思いましたが、いざ最後だと意識してしまうと、うまく言葉が出てきません。代わりに僕は、こう話しかけました。
「手紙書いてきたからさ。よかったら読んどいてや」
そう、僕は「推し」との別れに際し、手紙を認めてきたのです。
これが僕の答えでした。
傍から見たら気持ち悪いのかもしれません。一歩間違えたら、いや一歩間違えなくても頭のおかしい客と思われることでしょう。そんなことは誰に言われなくてもよくよく分かっています。でも僕は、僕はやはり、このまま終わらせたくはないのです。
久々に手書きで書いた手紙はところどころ字が崩れており、なんとも不格好です。印刷することも頭をよぎりましたが、この文章だけは手書きで書くべきな気がする。そんな思いから、何度か書き直しつつ、便箋4枚分の手紙を書き上げました。
内容は要約すれば陳腐なものです。
今までお給仕ありがとう、趣味の話がたくさんできて楽しかった、あなたのおかげで趣味の幅が広がった、新しい世界へと踏み出すきっかけをもらえた、あなたは最高のメイドさんだった、楽しい時間をありがとう。
ですがそれは、何度も推敲を重ね、僕の思いをギッチギチに詰め込んだ、今の僕が書きうる最高の文章になっていたと自負しています。
そして最後に連絡先を記載し、良かったら連絡してほしい旨を記して手紙を締めました。
そしてその手紙を手に、退勤時間を迎えた「推し」は帰っていきました。
残された僕は、最初からいた二人のメイドさんと卒業の余韻に浸ってから、なんやかんやと閉店時刻まで居座り、手紙の行く末に思いを馳せながら店を後にしたのでした。
「今日お店入ってきた時、かたやまさん泣いてませんでした?」
「推し」の退勤後、二人のメイドさんはそんなふうにして僕を弄ってくれました。そのいつも通りのやり取りと笑顔に、あのときの僕はぐっと楽になったのを覚えています。手紙の行く末がどうなるのか、気が気でなかったのです。
「推しの卒業ってつらいですけど、また絶対来てくださいよ!」
「推し」が卒業しても、今までお店に通ってきた全てが無に帰すわけではありません。これまで他のメイドさんと話してきた思い出やチェキはたしかにそこにあります。意外な趣味が判明し、まだまだ話してみたいメイドさんだっています。それにこのお店は結構居心地がいい。
「推し」からの返事がどうなろうと、またこの店に来よう。
そう夜空に浮かぶ月に向かって決意した僕は帰路についたのでした。
とまあこんな感じで終われば結構キレイだったのですが、物語はまだ続きます。
しかも、どちらかというとあまり知りたくない、クソみてえな続きだったので、巻き込まれた僕自身、今ではあれが本当にあったことなのか疑ってしまいたくなるほどです。ですが、今でもしっかりと思い出せるあのときの感情は、あの出来事が嘘ではなかったと確かに言っています。それは退店した僕を呼び止める声から始まりました。
「かたやまさん、かたやまさん!」
どこかで聞いた覚えのある男性の声。何事かと振り返ると、そこにはメイドカフェの店長の姿がありました。
これまで店長の姿は何度も見かけたことはありましたが、直接話すのは一年近く通う中で今回が初めてです。一体何の用事だろうか、もしかしてああいった手紙はご法度だったろうか、と身構えた僕に襲いかかったのは知りたくなかった悲しい真実でした。
あまりの出来事に、当日の夜に僕が怒りに任せて書き殴った文章があります。
────────────────────
俺はもう二度とあの店に行くことはないだろう。
推しが卒業した日にそれまで一度も話したことのない店長が急にしゃしゃり出てきて「実はあの子とうちの店はわだかまりがあって…。こんな形の卒業になって申し訳ないけどこれからも来てくださいね」って舐めてんのか?
なんで俺を気持ちよく帰らせねえんだ?俺はその話を聞いてどう反応すれば良いんだ?俺がその後どんな気持ちで推しの卒業ツイートを見たのか、お前に分かるか?
キャストの子たちは良くしてくれたよほんと。「推しの卒業って悲しいですよね」だの「また絶対来てくださいね」だの気を遣ってくれてるのがよく分かる、本当に嬉しい対応だった。また来ようと思った。
それを店長のお前が最後にぶち壊してどうすんだよ。俺が帰り道でなにを考えていたか分かるか?
「お前がいなけりゃ俺はもっと推しとの時間を楽しめてたんじゃねえの?」だよ。
そもそもわだかまりの原因がクソすぎる。推しが出たくないって言ってるイベントに無理やり出そうとするとかなに考えてんだ?奴隷じゃねえんだぞキャストは。お前の仕事はキャストに気持ちよく働いてもらって、お客に気持ちよく金を落としてもらうことなんじゃないのか?嫌がってんのに強制するなんて何考えてんだよ。
そんな内情を客に聞かせるのも最悪だ。「ああ、この子は無理やりシフト入れられたのかもしれないな…」って思いながら通う店が楽しいと思うか?ちょっと頭を働かせたら分かるんじゃないのか?それくらいは。
それにお前の店、ちょっと前にもキャストが飛んで別の店に転生してるだろ。何も知らずに呑気に通ってると思ったか?それくらい調べて通ってんだよ、こっちは。こうも立て続けにキャスト絡みで問題抱えた店なんて怖くてもう通えねーよ。キャストはみんな良い子ばかりなのにな。お前の店にはもったいねーわ。
大体よ、推しが出たくないイベントに出させようとして揉めたって聞いて、俺が店側に同調すると思ってんのか?推し側につくに決まってんだろ。むしろ店なんて憎むべき対象になるだろ。なんでそんな内情を話したんだ?同情を引きたかったのか?逆効果に決まってんだろクソが。そういう考えが浅いところも駄目なんだよ。客舐めんのも大概にしろよ。
なによりもムカつくのはこの内情をおそらく、俺にだけ話したことだ。他の客には話しかけてなかったもんな。俺の退店に合わせてぬるっと付いてきやがて。おかげさまで卒業を見送ったおセンチな気分は台無しになったよ、ありがとうございます。
分かるよ、なんで俺にだけ話したのか。俺は店じゃ金払いの良い方だったもんな。推しの卒業日も会計額ダントツだったもんな。そりゃ今後も通ってほしいわな。どうも、金蔓です。
でもさ、俺が金を落としていたのは推しや、他のキャストさんとの会話が楽しいからであって、お前の懐を潤わせるためじゃないんだわ。そこんとこ勘違いしないでくれよな。俺はお前の事情なんざどうでも良い。それをお前、「かたやまさんも競馬やるらしいですね?よかったらまた話しましょうよ」って、急になに?今まで俺の存在を認知しておいて一切話しかけてこなかったのに、こういう事態になっていきなり声をかけてくるなんて薄っぺらいんだよ。しょうもねえ。
あれか?俺がなし崩し的に昔からの常連たちに混ざって通うようになるとでも思ったのか?なるわけねーよ。俺ほかの常連一人を除いて全員嫌いだったし。「〇〇さんとユニバ行ったり―や」とかそういうこと堂々と言ってんじゃねーよ。キャストさんが困ってるの、俺でも分かるぞ。めちゃくちゃ言葉濁してるじゃねえか。お前も止めろよ、店長だろ。そういうとこ、常連だからってなあなあでやってんなよ。
こんな店長でよく今まで店続いてきたな。道楽でやってるタイプの店なのか?ほんと人の気持ちが分からねえやつがトップで良く続いたもんだ。
そいや店の中で風俗営業の許可証見たこと無いけどちゃんと許可とってんの?メニューの名前伏せて分かりにくくしてるけど、お客にあ~んするなんてモロに接待だろ。許可いるんじゃないの?お出かけも大丈夫か?あれ店が提供する店外デートだろ?当日店に行かないと特典分からないようにしているのは後ろめたいから?なんかあった時に困るのはキャストなんだから、そのへんくらいは最低限ちゃんとしとけよ。店長の努めだぞ。出来ね―なら辞めちまえ。
ほんとにキャストはみんないい子ばかりなのにな。こんな俺にもみんな良く話しかけてくれて、笑顔を向けてくれて、さんざん楽しませてくれた。本当にありがとう。そしてごめんなさい。
俺はもうあの店に通えない。クソみたいな内情を聞かされたから、もう純粋に楽しむことはできなくなったから、俺の楽しかった思い出を潰してくれやがった店長が憎くて憎くてしょうがないから、一円でも利する行為は絶対にしたくないから。
約一年間、良い思い出だったはずなんだがなあ。今ではもうチェキに写った笑顔の裏側を思うと涙が出そうになる。クソッタレ。
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もともとは店のtwitterにこれをぶん投げてやろうと思っていたのですが、流石にそれはあんまりだと最後の理性の一片が語りかけてきたため、この文章はお蔵入りとなりました。
これだけブチギレていたにも関わらず、僕は「推し」の卒業後に一度だけ店に行っています。なぜなら宿題チェキの受け取りが残っていたからです。
「推し」の卒業日、僕は30枚のチェキを頼んでいました。今までお店に通ってきた中で、一番の枚数です。撮ったチェキには落書きをしてもらえるサービスがあるのですが、これほどの枚数になるとその場だけで書くのは難しいもの。加えて、最終日ならではの混雑ぶり。こうした場合などでは、メイドさんが一旦チェキを持ち帰って落書きをし、後日それを客が受け取りに来る宿題チェキといった形式が取られます。
その30枚の宿題チェキの受け取りのために、二度と行かないと固く誓った店に行く必要があったのです。
残念ながらチェキの受け取りまでに、手紙に記載した連絡先への連絡はありませんでした。ひょっとしたら宿題チェキに何か書かれている可能性もありますが、おそらくそれも無いでしょう。
それが悲しくないと言えば嘘になりますが、それでも僕の心は晴れやかでした。
なぜならメイドカフェに通っていた一年間、自分にできることは全てやりきったという実感があったからです。
気の向くまま店に行った、好きな作品について語り合った、プレゼントを渡した、オススメしてくれた作品を見た、最後に手紙を渡せた。どれもこれも、自分の選択の結果であり、そこに悔いは全くありませんでした。
受け取った宿題チェキのほとんどは、いつも書いてくれていた落書きとそう変わらないチェキばかりでした。
しかし4枚だけ、普通の落書きとは違い、裏面に文字がびっしりと書かれたチェキがありました。そこには僕の手紙へのアンサーが綴られていました。
連絡先への言及はなく、ただただ一年間を振り返る内容が記載された4枚のチェキでしたが、そこに書かれた文章は、この一年間を締めくくるにふさわしい、素晴らしいものでした。
この子を「推し」ていて本当によかった。
そうして、僕のメイドカフェ生活は終わりを告げたのでした。
最後に、僕が推しの卒業ツイートに送りつけたリプライで本項を終わらせることとします。
いつもは決してリプなどしない僕でしたが(店のルールとかでリプ返禁止だから。というのにも関わらず律儀にリプライを送りまくっていた常連たちを僕は本気で恐れていました!)、流石に最後とあっては送らざるを得ませんでした。
二年間お疲れ様でした!
あなたに出会え、数々のオタク話が出来たことは、とても幸運なことだったと、今改めてそう思います。
おかげで僕の世界は広がりました。今まで本当にありがとうございました!
忙しい中のチェキ対応も本当にありがとう!
あなたの行く先がいつも幸せに満ち溢れていますように。
勘違いした客の気持ち悪い思い込みだと言われたら、返す言葉は一つもないのですが、まあここは僕のブログですし、気持ち悪くて怖いテキストこそを至上とする僕の墓標の一つとして書き残しておきました。いずれ爺になった自分がこの日記を読み返して何を思うのか、今から楽しみです。そういう楽しみ方もきっとある。
思い返せば楽しい一年ではありましたが、もう二度とメイドカフェに通うことはないでしょう。そんな場所に通うくらいなら、もっと知見を広めて自分を見つめ直す時間に充てたほうが良いという、当たり前すぎる事実に気付いてしまったからです。
そのことに気付くための一年だったと思えばなかなか有意義だったのかもしれません。普通の人はメイドカフェに通わなくてもそんなこと気付いているのでしょうが、そのあたりを考え出すと絶望的な気持ちになってくるので、強い気持ちでそこからは目をそらしておくことにします。
新たな気付きがあった僕が30歳になった今どうしているのかというと、これまでメイドカフェに使っていた時間がそっくりゲームあるいはアニメ等に注ぎ込まれるようになりました。
あまりの俗っぽさに自分でも驚きを禁じえませんが、ゲームが楽しいのですからどうしようもありません。むしろゲームより楽しくない現実サイドに問題がある気すらしてきます。
あと見なくなりつつあったアニメもめっちゃ見るようになったし、Netflixで海外ドラマやドキュメンタリーも見るようになりました。中にはメイドカフェに通ったことがきっかけで見始めたものもあるので、この一年間の思い出はしっかりと僕の中で根を張っているようです。
こんな調子では有意義な30代を過ごせるようになるのは、いつになるのやらといった感じですが、まあ気楽にやっていきたいところです。あるいはこれが有意義な30代の姿なのでしょうか。もはや何もわかりません。
時間よ止まれ
気がつけばブログを放置して一年以上が過ぎ去っていました。
もちろん、この一年間は早くブログを更新せねばと日々ネタ探しに奔走、ということは当然なく、割と普通に自分がブログをやっていたということすら忘れて穏やかな日々を過ごしていました。
盆休みの最終日、久しぶりに存在を思い出したこのブログにアクセスしてみると、そこに映し出されたのはイリーガルな何かを脳に注射されたとしか思えない稚拙で幼稚な恋愛論のような何か。こんなものが一年以上もトップページに表示されていたことに戦慄を覚えます。
この一年以上前の日記から察するに、当時の僕は何か恋愛的な意味での大事なことに気付いたようですが、なんとその後今に至るまで、その大事なことを披露する機会がなかったというのですから驚きしかありません。
周囲はすでに結婚、更には出産という人生の新たな局面を迎え、これからより成熟した人間となっていく一方で、僕は未だに芽吹くことすら出来ていない有様。しかも、このままでは芽伸び花開く日が来ないままに枯れてしまうかもしれないという絶望的な状況です。
「なんとかしなくては」
そうして悩み抜いた僕は今メイドカフェにいます。
いったいなんでこんな事になってしまったのか。
そこにはある一人のメイドさんとの出会いがありました。
2021年11月。
僕は友人に連れられて大阪・日本橋のメイドカフェに来ていました。
自分で言うのも恥ずかしいものですが、僕はマジで偏りまくった古のオタクのような思想の持ち主ですので、当時はメイドカフェについてもかなり斜に構えた見方で訪れていました。
ちょっと可愛いくらいの普通の女どもがメイド服を着ただけでメイドを名乗るなんておこがましい。「おかえりなさいませ、ご主人さま」なんて言ってみたところで、所詮はオタク文化の気持ち悪い部分が具現化したものでしか無く、こんなところに大手を振って通っている連中がいるなんて信じられない。
実際、過去に何度かメイドカフェには訪れたことはあり、中には有名店とされるところもありましたが、僕は全く楽しむことが出来ず、自分にはそういう店は合っていないのだと思っていました。このときも、友人の知り合いが働いているから一度行ってみようと、どちらかといえば冷やかし目的での入店でした。
しかし、この日を境に僕の認識は大きく改められることになります。
残念ながら友人の知り合いは出勤日ではなかったらしく、普通にお客さんとして入店する形となりました。日本橋の片隅にあるこじんまりとしたお店で、外から見ても穏やかな雰囲気が漂っています。
入店し、テーブル席に着いた僕たちのもとに一人のメイドさんが現れました。
「はじめまして、〇〇っていいます」
メイドカフェのシステムについては未だに明るくないのですが、どうやらこのお店は席に着いたお客(ご主人さま)に対し、わりと積極的にメイドさんが話しかけてくれるタイプのお店らしく、僕と友人の雑談に混ざる形でメイドさんが会話に入ってきます。
この時に現れたメイドさんこそが、このあと僕にとって初めての「推し」となるメイドさんでした。
今になって思えば、その後めちゃくちゃ推すことになるのはこの時点でもう決まっていたのかもしれません。なぜなら、ひと目見た瞬間に「あ、なんかめちゃくちゃかわいい人がきた」と思ったからです。僕はアイドルや女優なんかを見ても、あまりかわいいと思うことはないのですが、この時は明確に「かわいいな」と思ったことを強く覚えています。
この日はお客さんが少ない日だったらしく、彼女は頻繁に僕たちのテーブルに来てくれて、趣味の話や友人が作っていたゲームの話で盛り上がりました。
「メイドカフェは合わないと思っていたけど、話が合う人がいたら普通に楽しいんだな」
加えて、お店の雰囲気が自分にあっていたというのもあるのでしょう。
これまでに行ったことのあるお店はなんというか萌え要素を全面に押し出したようなところばかりで、おいしくなあれの魔法がかけられたり、メイドさんが歌いだしたりと、TVや雑誌で見るような典型的なメイドカフェというところでした。そのキャピキャピした感じが僕は苦手だったのです。
一方でこのお店はそういったサービスは全くなく、あるのはメイドさんとご主人さまの会話だけです。チェキやメイドさんが作るデザートといったメニューはありますが、それも過度に萌え要素が強いものではなく、どちらかといえば会話を楽しむための付加要素といった感じです。そこがおしゃべり好きな僕に合っていたのでしょう。
店を出る頃には「また来てみようかな」と思えるくらいには僕はこのお店が気に入っていました。
そして一ヶ月後、僕は二度目の来店を果たします。
年末のコミケを控えた12月下旬。
日本橋に行く用事のあった僕は、一人で二回目のメイドカフェに行くことを決めていました。どうせ行くならと、初回に話が盛り上がったメイドさんの出勤日を調べ、タイミングを合わせての出陣です。
初めて一人で入るメイドカフェには緊張しましたが、前回の楽しかった雰囲気を思い出し、なんとか扉を開きます。お店に足を踏み入れると、そこにはメイドさんではなく、サンタコスに身を包んだ女の子たちが待ち受けていました。
折しもこの日は「クリスマスイベント」が開催されており、普段はメイド服姿の女の子たちが今日はサンタコスでご主人さまを迎え入れるという日でした。この後にわかるのですが、このお店は頻繁になんらかのイベントを開催しており、その都度衣装が変わるという何度来ても楽しめるタイプのお店でした。
席についた僕に対し、前回話したメイドさんが話しかけてくれました。
「前も来てくれましたよね?」
一ヶ月前に一回来ただけの僕を覚えてくれていたようで、すぐに気付いてくれました。普通に嬉しかったです。
今日はイベント日ということもあってお客さんも多く、前回ほどゆったり話せませんでしたが、僕がコミケに行くと伝えるとメイドさんのテンションが少し変わります。どうやら大好きな先生がコミケにサークル参加するとかで、コミケに行く僕のことが羨ましいとのことでした。前回から薄々思っていましたが、彼女はなかなかのオタクのようです。
「へえ、誰が出るんですか?」
「〇〇先生です!」
返ってきた名前は当時僕がドハマりしていた作品のイラストレーターさんの名前でした。そう、彼女と僕は好きな作品が一緒でした。
それからはひたすら好きな作品について語り合う時間が続きました。お互いに周囲にその作品が好きな人がおらず語りたい欲が溜まっていたからか、主人公とヒロインの関係性が素晴らしいだの、作者の性癖が透けて見えるだの、堰を切ったかのように話が続きます。
自分と同じ熱量でオタク話ができることは非常に嬉しく、それがめちゃくちゃ可愛い子相手だというのですから、これ以上に楽しいことはそうないと断言出来るでしょう。この時点で僕はこの店にこれからも通うことを決心しました。
そして年末のコミケでは、目当ての本を2冊確保する僕の姿がありました。
年明け。またもや彼女の出勤に合わせ、メイドカフェへと赴きます。
カバンの中に1冊の同人誌を忍ばせて入店すると、巫女服姿のメイドさんたちが待ち受けていました。今日は「巫女イベント」です。
この頃にもなると慣れたもので、すっとカウンター席に陣取ってドリンクを注文します。ドリンクが来る頃にちょうど彼女が話しかけてきてくれたので、これどうぞと同人誌を差し出しました。もちろん、彼女が欲しがっていたイラストレーターの同人誌です。
彼女の喜び具合と言ったらかなりのもので、我慢できずにその場で本を読み出すほどでした。
その様子をみて、他のメイドさんも集まってきます。当然ですが、目当てのメイドさん以外にもメイドさんはいるわけで、入店回数が増えるたび、その人達とも交流が深まっていきます。
集まってきたメイドさんに対し、この本が如何に素晴らしいものか力説する姿を見て、こんなに喜んでもらえるなら買ってきてよかったな、と心の底からそう思いました。
こういったプレゼントを送った場合、その場では喜んでいても裏ではどう思っているか分からないということが大半です。が、どうやらこれは本当に気に入ってくれたようで、同人誌を額装して部屋に飾っているというのですから驚きです。
ちょくちょく上げてくれる部屋での自撮りに今でも写り込んでいることがあり、それを見るたびになんだか嬉しくなる自分がいます。
好きな作品が同じでそれについて語り合っていると、次は他にどんな作品が好きなのか気になってくるものです。
特にオタクなんて生き物は語りたがりの習性を持つ因果な存在ですので、好きな作品やオススメの作品なんてものを聞かれたときには、自分でも驚くくらいにペラペラと舌がまわります。
この日は、まさにそういう日でした。
同人誌の話から、他にどういった作品を見ているのか、何かオススメの作品はないものかと彼女から話を振られました。
こういったとき、僕は鉄板で勧める作品があります。それが過去の日記でも何度か登場している「猫の地球儀」です。「猫の地球儀」の素晴らしさについて今更触れることはしませんが、この作品は紛れもない名作です。
そして、この「猫の地球儀」を勧めたばかりに僕の中に「推し」という存在が出来るのでした。
「猫の地球儀」を勧めた二週間後、メイドカフェに来た僕を待ち構えていたのは、すでに「猫の地球儀」を読み終え、感想を伝えてくれる彼女でした。
「推し」が生まれた瞬間でした。
まさか、こんな二週間で上下巻両方読み終えてくるなんて。まさか、誰かと感想を言い合える日が来るなんて。
勧めたとはいえ、こんなに早く読んでもらえるとは思っていませんでした。というか、今まで「猫の地球儀」を勧めた人の中でちゃんと最後まで読み切ってくれたのは彼女が、いや「推し」が初めてです。これがどれほど嬉しかったことか。
この人がここにいる限り、全力でついていこう。僕がそう心に決めたのは当然のことだったのでしょう。
これ以降、僕のメイドカフェ来店ペースは加速し、今では推しの出勤に合わせて週一以上のペースでメイドカフェへと行っています。
推しが出来てから僕の生活は少し変わったような気がします。
メイドカフェに行くのにみすぼらしい格好では駄目だと、身だしなみに気を使うようになりました。家に引きこもっていては話題が尽きてしまうと、以前にも増して外に出るようになりました。新しいことをやってみようと、オムライスの練習をしました。
特に大きいのが、漫画やアニメに対する情熱が復活してきたことです。最近は楽しめる作品が見つからず、新作のチェックを全くと言っていいほどしていませんでした。しかし、推しからオススメの作品を聞き、色んな作品を見るようになり、この情熱がかなり復活してきたように思います。Netflixに入り、海外ドラマも見るようになったりと趣味が広がっているとも感じます。
さらには、コミケにサークル参加したのも推しが理由の一端を担っています。もともと出ようとは思っていましたが、二次創作小説を書き、紀行文を修正し、一冊の本にまとめるまで至ったのは確実に推しの影響です。同人活動経験があるという推しに倣い、僕もやってやるぞと本気で向き合うことが出来ました。
最近ではまた文章を書く気力も湧いてきて、今日のように日記を認める他に、どこぞで載せてもらえないかと企画案を考えるようにもなっています。有り体に言えば、推しに凄いと思ってもらえるような何かをやりたい。
この一年足らずの間に、楽しめることが増えたのは推しのおかげです。
もともと僕はポジティブな人間だったという自負はありますが、それが今やポジティブの極北とも言えるレベルに達しており、あらゆることに意欲的に取り組めているような気がします。
しかし、そうやって楽しめることが増えていく一方で、心の奥底で澱のように溜まっていく不安もあります。
それは推しはいつかはいなくなってしまうということです。
なんとこれまでは前振り、ココからが本題です。
僕はこれまでに女優やアイドル、声優など実在する人物のファンになるという経験がないままに生きてきました。漫画やアニメの登場人物のファンになることはあったので、俗に言う「二次元に生きてきた」状態です。ハッキリ言ってしまえば、三次元のファンになるという感覚があまり理解できませんでした。
これはなにも人を好きになることがないというわけではなく、自分の遠くにいる人を応援しようと思えるのがよく分からないということです。応援する気持ちだけならまだしも、自分のお金や時間というリソースを割く意味がよく分かりませんでした。
しかし、今ではその気持ちが痛いくらいに理解できます。誰かを「推す」というのは理屈ではないのです。ある種本能的な、どうしてもそうしたい、そうしなければと思う、それが「推す」ということなのでしょう。
実際、最初は月に一回か二回程度で通っていた僕でしたが、今では推しの出勤日の8割くらいは店に通ってしまっています。やり過ぎるとやべーやつになりそうで怖いのですが、楽しいのですからどうしようもありません。
そして、その楽しさが今だけの刹那的なものであると理解しているからこそ、できる限り通っておこうと思ってしまうという側面もあります。
推しはいつかは店を辞めてしまいます。これは避けようのない、確定した未来です。
これが漫画やアニメであれば、完結することはあっても作品自体はずっと残りますが、実在する人物となるとそうもいきません。一度消えてしまうとそのままで、読み返すようなことは出来ません。これからの人生で再度交わるということもないでしょう。
頭ではそういうものだと理解していますし、だからこそ「推しは推せるうちに推せ」なんてことも世の中では言われているのでしょうが、それでもやはりその時を迎えるのが今から怖いと感じます。
こんなことは考えてもどうしようもないことなのでしょう。
ですがどうしても、楽しい時間が続けば続くほど、いつか来る終わりの時を考えてしまうのです。推しが消えてしまうという未だに味わったのことのない経験は僕にどのような形で降りかかるのだろうか。その時、僕は何を考えるのだろうか。
どうかこのまま、楽しい時間が続いてくれないものだろうか。
そんなことを考えていたことが伝わったのでしょうか。
先日、推しから以下のような話題を振られました。
「実在の人を推すのってめちゃくちゃ怖くないですか?二次元は裏切らないのに」
正直、「お前がそれを俺にいうんかい!それはちと酷だぜ」と思いましたが、やはりオタク同士、似たようなことを考えるもんだなと少し嬉しくもありました。
推しは更に畳み掛けます。
「なんで推そうって思ってくれたんですか?」
こんなの答えるのが恥ずかしすぎてとてもシラフでは話せないのですが、それでもなんとか前振り部分で書いたようなことがあったからだよと鋼の意思で答えました。
でも、考えてみるといい機会ではあります。推しと推すことについて話せる機会なんてそうないですからね。このタイミングでずっと気になっていたことを聞いてみました。
「こっちも聞きたいねんけどさ。推される側って何されたら嬉しいん?」
「えー、なんやろ。かたやまさんは遊び方分かってる人と思うけど」
なんだかちょっとピントの外れた答えが返ってきましたが、どうやら今のままで合っているようです。深く考えることは止めておきます。
「別にこの店かたやまさんのこと嫌いな子もおらんとおもうけどなあ」
それはそれはとても嬉しいことなのですが、今聞きたいことの核はそこではありません。
あなたが!わたしに!なにを!されたら嬉しいのか!を教えてほしいのです。まあパッと出て来ない程度には、僕の普段の振る舞いで満足してもらえているということなのでしょうか。そう無理やり自分を納得させます。
自分で言うのもなんですが、多分僕は良いお客さんなのでしょう。
どこかへ出掛けたときには皆で食べてくださいとお土産を買ってくるし、同人誌以降も推しが欲しがっていたものはプレゼントとして時々持ってくる。チェキは推し以外の子もお願いするし(これはみんな可愛いから)、恐らく誰が相手でもしゃべりも悪くない。
今では店の子全員に顔と名前を覚えてもらえたし、最初はお互い敬語だったところも大分くだけてタメ口が増えました。コツコツ通った甲斐があったというものです。
そして、メイドカフェに通うのが楽しくなったその分だけ、やはりどうしても別れの時を想像してしまうのです。
僕が通いだしてから、覚えている範囲で4人のメイドさんがお店を卒業していきました。幸か不幸か、最初の二人はあまり交流がないままに卒業していったので特になにも思うところはなかったのですが、あとの二人は結構話すようになってからの卒業だったので、推していたわけでもないのに少しの物悲しさが残りました。
これが推しの卒業ともなればどうなってしまうのでしょうか。
一応、卒業時には卒業イベントが開かれるはずなので気持ちに区切りをつけることは出来るのでしょうが、それでもやはり深い悲しみは残るのでしょう。
まあ分かってはいるんですよ。所詮は客と店員だって。向こうも仕事でやってくれているんだろうって。
でも僕は過去にできたどんな友達とだってここまでオタク的な会話が噛み合ったことがないんです。勧めてくれた作品がドンピシャで刺さったこともそうないんです。
そんな人と将来的にさよならしないといけないなんて、それが分かっている状態で、それでも今を楽しむしかないなんて、もうどうすれば良いんだって感じなんですよ。
それにね、全部が全部仕事でやってるわけでもないと思うんですね。だって「猫の地球儀」以外に勧めた作品は全部見てくれたわけでもないから。興味持てなかったやつは見てないみたいだから。そんな中で僕が特に好きな作品はすぐに全部見てくれたなんて、やっぱり嬉しいじゃないですか。ああ、これは刺さったから見てくれたんだなって。
最初は見た目が可愛いからってところが始まりではありました。でもそれだけだったらこんなにも通いつめることにはなってなかったと思います。やはり趣味の話が合うというのが僕の中では非常に重要で、推しがいなくなるというのは趣味仲間が、好きな作品の新刊について語り合う仲間がいなくなるのと同義です。この点については可愛さは全く関係なく、例えば推しが男だったとしても同じように悲しんでいるだろうと思います。
いざ別れというその時、僕はいったいどう振る舞うべきなのか。
理想のお客としての振る舞いは簡単です。なにもせず、そのまま見送れば良い。
でも、僕は強欲で貪欲なのでせっかく手に入れた趣味仲間を手放したくはありません。これからも何らかの形で関わる機会が欲しいのです。
可能なら今の店にずっといてもらうか、あるいは別の店に移ったりするなら僕もそちらに通うようにしたいくらいです。
というか僕はそもそも何がしたいのか。何がどうなれば満足するのか。
こんな訳のわからないことに悩むたび、なぜ今の楽しい時間が続いてくれないのかと思ってしまいます。今のままでいいのに、なにも変わる必要なんてないのに。
どうか時間よ止まっておくれ。
面白さとモテについての考察
ここ数年うっすらと気が付き始めてはいたのですが、僕が評価する、あるいは求めている面白さと、求めるべきだった面白さは似て非なるものだったようです。
ここ数年で僕が一番笑ったであろうテキスト「賢勇者シコルスキ・ジーライフの大いなる探求」(以下、「シコルスキ」)の著者である有象利路氏が、自身が作中で用いていたテクニックについて書かれた記事が公開されています。
「シコルスキ」はギャグラノベという立ち位置の作品であり、シモネタ・パロディ・メタネタ何でもありのかなり自由な作品です。小説という媒体の特性を活かしたギャグの数々にはとても惹きつけられるものがありました。
誠に残念ながら本作は3巻打ち切り(有象氏によると売れないから)ということで、これ以上新たな展開が望めないものとなってしまっておりますが、それでも僕個人としては本作をとても高く評価しており、一生本棚から消えることはないでしょう。
ここで挙げられているのはギャグ小説家としてのテクニックではありますが、文字だけで相手を笑わせるのが目的という共通点から、昨今よくみるオモシロ系記事や、僕が大好きなテキストサイトにも同じことが言えるのではないかと思います。
そういった観点に立って有象氏の記事と自分が面白いと思うものについて考えていくうち、自分が求めている面白さの正体について朧気ながらも浮かんできたような気がしたのでここに記しておきます。
主観と偏見がふんだんに盛り込まれた、ただの日記です。
思えば僕はテキストサイト的な面白さを是として生きてきました。
そもそもテキストサイトとはなにか、と問われると定義が非常に難しいのですが、ここでは単純に閲覧者を笑わせる文章をメインコンテツとしたウェブサイトとして捉えておきます。
なにか面白いことを、と考えたときに頭に浮かぶのはいつもテキストサイト的な面白さでした。
じゃあテキストサイト的な面白さって何だよという話なのですが、僕は"自虐ネタ"がこの正体だと思っています。
テキストサイトと有象氏の記事を無理やり関連付けてみると、テキストサイトは登場人物が管理人一人だけの一人称ギャグ小説に近いものだと考えられます。
時々登場人物が増えることはありますが、基本的には管理人一人しか出てこない世界です。これでギャグをやるというのは大変な労力を伴います。
ボケとツッコミという基本的な組み合わせが満足に使えず、かといってセルフツッコミなどしようものなら相当な技量がない限りスベるだけ、こんな状況で無理なく笑いを生み出そうとするなら道は限られています。
その一つが、最初からツッコミは閲覧者任せとし、自分はただ強烈なボケにまわる道です。マインドとしてはピン芸人とおなじですが、こちらは表現手段が文字のみという大きなハンデがあります。
音声や動きで勢いづけることは出来ませんし、一発芸的な笑いのとり方も難しい。どうしても語りが必要になってきます。
そこでよく用いられた手法が、自分の体験したエピソードあるいは恥部をさらけ出し、その異常性・衝撃を持ってして、馬鹿なことをしているなあと相手の笑いを誘うというものです。
つまりは"自虐ネタ"です。
自分はこんな欠点をもっている、あんな馬鹿なことをしてしまった、と全てをさらけ出し、自分を貶める自虐ネタはテキストサイトとの相性が非常に良いです。
実際、自虐ネタが盛り込まれたテキストサイトは多くあったと記憶しています。有名どころでは童貞ネタや留年ネタがあるでしょうか。自分の恥部をさらけ出すことで笑いに変える文化が発展していました。
童貞ネタなどでは特に顕著なのですが、自虐ネタには男子校的なノリが多分に含まれているように思えます。自分はこんなに駄目なんだぞ!と恥部をさらけ出す行為には、(どうだまいったか、俺よりダメな奴はそうおるまい?)という歪な誇らしさとが見え隠れしています。あとはまあシモネタとの親和性も高いです。
テキストサイト隆盛の時代は、スマホはまだ普及しておらずインターネットの男女比も明らかに男性偏重だったため、自虐ネタを取り入れたサイトは特に多かったのだと思います。
ここで一つ、人はなぜ面白くあろうと考えるのでしょうか。
それはひとえに「モテたい」に集約されると思います。
異性間はもちろんのこと、同性間であっても「モテたい」のです。
小学生の時から社会人の今に至るまで、面白い人は常に人気がありました。面白いということが仕事となり、社会的な影響も持つような時代です。芸人のだれそれが女優のだれそれと結婚するというニュースもよく耳にします。
極論を言ってしまえば、面白さを極限まで高めると富・名声・力、全てが手に入るのです。
なんだかスケールが大きくなってしまいそうなので議論を縮小させてもらいますが、つまり面白ければモテるのです。
しかしここで一つ注意しなければならないことがあります。
同性間で評価される面白さと、異性間で評価される面白さは、似ているようで実際には明確な違いがある点です。
僕が大学生の頃、アルバイト先は完全なる男社会でそこにMさんという人がいました。
Mさんは僕より7つか8つ歳上で、頼れるアニキといった立ち位置だったのですが、このMさんはとんでもない自虐ネタの使い手でした。
サービス残業モリモリで働いたエピソードや、バイナリーオプション取引に失敗して借金をこさえた経緯を面白おかしく語り、挙句の果てには自ら撮影したハメ撮りをお披露目してくれたりと、自分の恥部をさらけ出すことに躊躇がない人でした。
改めて書き出すと笑えないエピソードな気がしてきましたが、当時の僕らにはそれが大ウケ、モニターに表示されるMさんのケツが小気味良いリズムで揺れるのを見ながら爆笑していました。
一度聞いてみたことがあるのですが、Mさんとしても皆が笑ってくれるならそれは嬉しいもので、自分の失敗をそのままにするよりはせめて笑いに変えたいとのことでした。
そんなMさんですが、アルバイト先に女性が増えてくるにつれ、過度な自虐ネタは控えるようになっていました。男だけで集まったときは相変わらずの調子で、風俗での失敗談などを語ってくれていたのですが、流石に女性相手に過度な自虐ネタを披露したところで引かれるだけだと分かっているのか、大っぴらにそういう話をすることはめっきりなくなっていました。
そう、同性間で評価される面白さと、異性間で評価される面白さ、ここでは「友人としての面白さ」と「恋愛としての面白さ」とでも言い替えましょうか、それらは本質的に異なるものなのです。もちろん、両者をイコールで結べる場合もあるとは思いますが、大抵の場合は異なっています。
「友人としての面白さ」は、そのままの意味で友達付き合いをしていく上での面白さです。多少珍妙な振る舞いが含まれていても、友達として付き合っていく分には問題はありません。むしろその珍妙さこそが良い刺激となることでしょう。ただし、ずっと一緒にいるのはしんどいかもしれません。
これは自分が面白いと思うことを好き勝手やってるだけでもある程度発揮されるもので、主題が自分にある面白さだと思います。ボールは投げた、あとは誰がどう受け止めてくれるのか、どちらかといえば一対多の概念を持つものになります。動のイメージです。
一方で「恋愛としての面白さ」は、この人が好きだ、一緒にいるだけでも楽しいという面白さです。ギャグ的には面白くなくても溢れ出る人間性の良さから、自然と楽しくなってきます。ずっと一緒にいてもなんら苦ではありません。
これは相手が何を面白いと思ってくれるのかを理解していなければ発揮されません。相手が何を求めているのか的確に把握する必要があり、相手が待ち受けているところにどうボールを持っていくのか、一対一の概念を持つものになります。静のイメージです。
自虐ネタは「友人としての面白さ」を発揮するにはかなりの効力が見込めますが、自らのマイナスポイントをアピールする手法である以上、どうしても「恋愛としての面白さ」の表現には不向きです。
先述のMさんとは僕がアルバイトを辞めて数年後に再開する機会があったのですが、話を聞いてみると借金の額が増えていました。正直めちゃくちゃ笑ったのですが、そのことすらも笑いに変えようとするMさんの姿に、僕は戦慄せずにはいられませんでした。友人としては良いが恋愛としては駄目という好例でしょう。過ぎた自虐は身を滅ぼします。
そもそも、自らをさらけ出すといえば聞こえは良いですが、さらけ出しすぎるとただのキチガイとしか捉えてもらえません。それを「面白い」という人ももちろんいますが、言葉にすると同じ「面白い」であるというだけであって、含まれるニュアンスは全く異なります。
一方は人間的な魅力に溢れ、話していて楽しい、もっと一緒にいたいという「面白い」であり、もう一方は動物園で珍獣を見るのと同じ、檻の外から適度な距離でたまに見るからこそ良い「面白い」なのです。当然、自虐ネタは後者にあたります。
僕は長い間、「面白い」を求めるにあたり両者の違いを明確に意識してきませんでした。「面白い」は「面白い」に違いないだろうと、自虐ネタをふんだんに使い、男子校的なノリを保ったままに生きてきました。
自惚れかもしれませんが、これは「友人としての面白さ」いう面ではうまく発揮できており、友人関係には恵まれている方だと思います。それがたとえキチガイ扱いされているだけだったとしても、僕もMさんと同じように誰かが喜んでくれたらそれで良いのです。
翻って「恋愛としての面白さ」という面に着目すると、これはうまくいっているとは到底言えません。これをどう発揮していけばよいのかすら全く分かっていません。特定個人に向けた面白さは、千差万別でどう捉えていけばよいのか、おそらくは僕がこれまでに目を向けてこなかった「面白い」に答えはあるのでしょう。
あとは容姿とか身なりとか性格とかも関係しているような気がしますが、そこにはギュッと目を瞑ります。
思うに、「面白い人」って「いい人」なんですよ。
「面白い人」ってのは便利な言葉で、それにはいろんなニュアンスが隠れているはずなんです。「いい人」って表現と一緒ですね。
ですがまあ、今からそのあたりを探りながら思う方に変えていくのは難しいんだろうなとも思います。
僕自身、自虐ネタを使いすぎていて自分だけの秘密ってものが全くない状況に陥っていますし、何かあればネタになるんじゃないかとすぐ友人たちに話してしまいます。僕の友人から話を集めれば僕のすべてが明かされるようになっているほどです。
もしかすると、そうやって何でもあけっぴろげにしているからこそ、「友人」になるのかもしれませんね。秘密があるからこそ生まれる関係というのもあるでしょうし。
あ、一つだけ秘密にしてることありました。
3月頃だったかと思いますが、家の中にいながらうんち漏らしてしまいました。28にもなって床に落ちたうんちを処理する姿はなかなか惨めだったと思います。こういう秘密から生まれる関係ってどうですか?
自分で書いていてもわかりますが、こんなことしてるやつは友達くらいがちょうど良いな。
読み返すと失恋した人が書いた文章みたいになってるけどそういうのじゃないです。
途中から有象氏の記事が全く関係なくなっていて申し訳ない。