インターネットのけもの

全て妄想です。

面白さとモテについての考察

ここ数年うっすらと気が付き始めてはいたのですが、僕が評価する、あるいは求めている面白さと、求めるべきだった面白さは似て非なるものだったようです。

 

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ここ数年で僕が一番笑ったであろうテキスト「賢勇者シコルスキ・ジーライフの大いなる探求」(以下、「シコルスキ」)の著者である有象利路氏が、自身が作中で用いていたテクニックについて書かれた記事が公開されています。

「シコルスキ」はギャグラノベという立ち位置の作品であり、シモネタ・パロディ・メタネタ何でもありのかなり自由な作品です。小説という媒体の特性を活かしたギャグの数々にはとても惹きつけられるものがありました。

誠に残念ながら本作は3巻打ち切り(有象氏によると売れないから)ということで、これ以上新たな展開が望めないものとなってしまっておりますが、それでも僕個人としては本作をとても高く評価しており、一生本棚から消えることはないでしょう。

 

ここで挙げられているのはギャグ小説家としてのテクニックではありますが、文字だけで相手を笑わせるのが目的という共通点から、昨今よくみるオモシロ系記事や、僕が大好きなテキストサイトにも同じことが言えるのではないかと思います。

そういった観点に立って有象氏の記事と自分が面白いと思うものについて考えていくうち、自分が求めている面白さの正体について朧気ながらも浮かんできたような気がしたのでここに記しておきます。

主観と偏見がふんだんに盛り込まれた、ただの日記です。

 

 

思えば僕はテキストサイト的な面白さを是として生きてきました。

そもそもテキストサイトとはなにか、と問われると定義が非常に難しいのですが、ここでは単純に閲覧者を笑わせる文章をメインコンテツとしたウェブサイトとして捉えておきます。

なにか面白いことを、と考えたときに頭に浮かぶのはいつもテキストサイト的な面白さでした。

じゃあテキストサイト的な面白さって何だよという話なのですが、僕は"自虐ネタ"がこの正体だと思っています。

 

テキストサイトと有象氏の記事を無理やり関連付けてみると、テキストサイトは登場人物が管理人一人だけの一人称ギャグ小説に近いものだと考えられます。

時々登場人物が増えることはありますが、基本的には管理人一人しか出てこない世界です。これでギャグをやるというのは大変な労力を伴います。

ボケとツッコミという基本的な組み合わせが満足に使えず、かといってセルフツッコミなどしようものなら相当な技量がない限りスベるだけ、こんな状況で無理なく笑いを生み出そうとするなら道は限られています。

その一つが、最初からツッコミは閲覧者任せとし、自分はただ強烈なボケにまわる道です。マインドとしてはピン芸人とおなじですが、こちらは表現手段が文字のみという大きなハンデがあります。

音声や動きで勢いづけることは出来ませんし、一発芸的な笑いのとり方も難しい。どうしても語りが必要になってきます。

そこでよく用いられた手法が、自分の体験したエピソードあるいは恥部をさらけ出し、その異常性・衝撃を持ってして、馬鹿なことをしているなあと相手の笑いを誘うというものです。

つまりは"自虐ネタ"です。

 

自分はこんな欠点をもっている、あんな馬鹿なことをしてしまった、と全てをさらけ出し、自分を貶める自虐ネタはテキストサイトとの相性が非常に良いです。

実際、自虐ネタが盛り込まれたテキストサイトは多くあったと記憶しています。有名どころでは童貞ネタや留年ネタがあるでしょうか。自分の恥部をさらけ出すことで笑いに変える文化が発展していました。

童貞ネタなどでは特に顕著なのですが、自虐ネタには男子校的なノリが多分に含まれているように思えます。自分はこんなに駄目なんだぞ!と恥部をさらけ出す行為には、(どうだまいったか、俺よりダメな奴はそうおるまい?)という歪な誇らしさとが見え隠れしています。あとはまあシモネタとの親和性も高いです。

テキストサイト隆盛の時代は、スマホはまだ普及しておらずインターネットの男女比も明らかに男性偏重だったため、自虐ネタを取り入れたサイトは特に多かったのだと思います。

 

 

ここで一つ、人はなぜ面白くあろうと考えるのでしょうか。

それはひとえに「モテたい」に集約されると思います。

異性間はもちろんのこと、同性間であっても「モテたい」のです。

 

小学生の時から社会人の今に至るまで、面白い人は常に人気がありました。面白いということが仕事となり、社会的な影響も持つような時代です。芸人のだれそれが女優のだれそれと結婚するというニュースもよく耳にします。

極論を言ってしまえば、面白さを極限まで高めると富・名声・力、全てが手に入るのです。

 

なんだかスケールが大きくなってしまいそうなので議論を縮小させてもらいますが、つまり面白ければモテるのです。

しかしここで一つ注意しなければならないことがあります。

同性間で評価される面白さと、異性間で評価される面白さは、似ているようで実際には明確な違いがある点です。

 

僕が大学生の頃、アルバイト先は完全なる男社会でそこにMさんという人がいました。

Mさんは僕より7つか8つ歳上で、頼れるアニキといった立ち位置だったのですが、このMさんはとんでもない自虐ネタの使い手でした。

サービス残業モリモリで働いたエピソードや、バイナリーオプション取引に失敗して借金をこさえた経緯を面白おかしく語り、挙句の果てには自ら撮影したハメ撮りをお披露目してくれたりと、自分の恥部をさらけ出すことに躊躇がない人でした。

改めて書き出すと笑えないエピソードな気がしてきましたが、当時の僕らにはそれが大ウケ、モニターに表示されるMさんのケツが小気味良いリズムで揺れるのを見ながら爆笑していました。

一度聞いてみたことがあるのですが、Mさんとしても皆が笑ってくれるならそれは嬉しいもので、自分の失敗をそのままにするよりはせめて笑いに変えたいとのことでした。

 

そんなMさんですが、アルバイト先に女性が増えてくるにつれ、過度な自虐ネタは控えるようになっていました。男だけで集まったときは相変わらずの調子で、風俗での失敗談などを語ってくれていたのですが、流石に女性相手に過度な自虐ネタを披露したところで引かれるだけだと分かっているのか、大っぴらにそういう話をすることはめっきりなくなっていました。

そう、同性間で評価される面白さと、異性間で評価される面白さ、ここでは「友人としての面白さ」と「恋愛としての面白さ」とでも言い替えましょうか、それらは本質的に異なるものなのです。もちろん、両者をイコールで結べる場合もあるとは思いますが、大抵の場合は異なっています。

「友人としての面白さ」は、そのままの意味で友達付き合いをしていく上での面白さです。多少珍妙な振る舞いが含まれていても、友達として付き合っていく分には問題はありません。むしろその珍妙さこそが良い刺激となることでしょう。ただし、ずっと一緒にいるのはしんどいかもしれません。

これは自分が面白いと思うことを好き勝手やってるだけでもある程度発揮されるもので、主題が自分にある面白さだと思います。ボールは投げた、あとは誰がどう受け止めてくれるのか、どちらかといえば一対多の概念を持つものになります。動のイメージです。

一方で「恋愛としての面白さ」は、この人が好きだ、一緒にいるだけでも楽しいという面白さです。ギャグ的には面白くなくても溢れ出る人間性の良さから、自然と楽しくなってきます。ずっと一緒にいてもなんら苦ではありません。

これは相手が何を面白いと思ってくれるのかを理解していなければ発揮されません。相手が何を求めているのか的確に把握する必要があり、相手が待ち受けているところにどうボールを持っていくのか、一対一の概念を持つものになります。静のイメージです。

 

自虐ネタは「友人としての面白さ」を発揮するにはかなりの効力が見込めますが、自らのマイナスポイントをアピールする手法である以上、どうしても「恋愛としての面白さ」の表現には不向きです。

先述のMさんとは僕がアルバイトを辞めて数年後に再開する機会があったのですが、話を聞いてみると借金の額が増えていました。正直めちゃくちゃ笑ったのですが、そのことすらも笑いに変えようとするMさんの姿に、僕は戦慄せずにはいられませんでした。友人としては良いが恋愛としては駄目という好例でしょう。過ぎた自虐は身を滅ぼします。

そもそも、自らをさらけ出すといえば聞こえは良いですが、さらけ出しすぎるとただのキチガイとしか捉えてもらえません。それを「面白い」という人ももちろんいますが、言葉にすると同じ「面白い」であるというだけであって、含まれるニュアンスは全く異なります。

一方は人間的な魅力に溢れ、話していて楽しい、もっと一緒にいたいという「面白い」であり、もう一方は動物園で珍獣を見るのと同じ、檻の外から適度な距離でたまに見るからこそ良い「面白い」なのです。当然、自虐ネタは後者にあたります。

 

 

僕は長い間、「面白い」を求めるにあたり両者の違いを明確に意識してきませんでした。「面白い」は「面白い」に違いないだろうと、自虐ネタをふんだんに使い、男子校的なノリを保ったままに生きてきました。

自惚れかもしれませんが、これは「友人としての面白さ」いう面ではうまく発揮できており、友人関係には恵まれている方だと思います。それがたとえキチガイ扱いされているだけだったとしても、僕もMさんと同じように誰かが喜んでくれたらそれで良いのです。

翻って「恋愛としての面白さ」という面に着目すると、これはうまくいっているとは到底言えません。これをどう発揮していけばよいのかすら全く分かっていません。特定個人に向けた面白さは、千差万別でどう捉えていけばよいのか、おそらくは僕がこれまでに目を向けてこなかった「面白い」に答えはあるのでしょう。

あとは容姿とか身なりとか性格とかも関係しているような気がしますが、そこにはギュッと目を瞑ります。

 

思うに、「面白い人」って「いい人」なんですよ。

「面白い人」ってのは便利な言葉で、それにはいろんなニュアンスが隠れているはずなんです。「いい人」って表現と一緒ですね。

 

ですがまあ、今からそのあたりを探りながら思う方に変えていくのは難しいんだろうなとも思います。

僕自身、自虐ネタを使いすぎていて自分だけの秘密ってものが全くない状況に陥っていますし、何かあればネタになるんじゃないかとすぐ友人たちに話してしまいます。僕の友人から話を集めれば僕のすべてが明かされるようになっているほどです。

もしかすると、そうやって何でもあけっぴろげにしているからこそ、「友人」になるのかもしれませんね。秘密があるからこそ生まれる関係というのもあるでしょうし。

 

あ、一つだけ秘密にしてることありました。

3月頃だったかと思いますが、家の中にいながらうんち漏らしてしまいました。28にもなって床に落ちたうんちを処理する姿はなかなか惨めだったと思います。こういう秘密から生まれる関係ってどうですか?

 

自分で書いていてもわかりますが、こんなことしてるやつは友達くらいがちょうど良いな。

 

 

 

 

読み返すと失恋した人が書いた文章みたいになってるけどそういうのじゃないです。

途中から有象氏の記事が全く関係なくなっていて申し訳ない。