インターネットのけもの

全て妄想です。

おばあちゃんが死んだ

2024年8月26日23時48分、おばあちゃんが死んだ。

8月2日に89歳の誕生日を迎えたばかりだった。

 

 

もともと神戸に一人で暮らしていたおばあちゃんは、僕が中学生の時に大阪に引っ越してきた。

その時から、おばあちゃんは「たまに遊びに行く親戚」から、「一緒に暮らす家族」になった。

 

一緒に暮らす、とはいえ同居していたわけではない。おばあちゃんは住んでいたマンションを引き払い、僕が住む家の前に建てられた新築の家に引っ越してきたのだ。

お互いに相手の玄関まで10秒もかからないその近さゆえ、必然的に一緒に過ごす時間は多くなった。

夕食はおばあちゃん家でみんなでとるようになったし、僕自身もそっちの方が集中できるからとおばあちゃん家でテスト勉強なんかをするようになった。そのうちパソコンの置き場所もおばあちゃん家に移り、結局は一日のほとんどの時間をそこで過ごすようになった。友達と遊ぶのもおばあちゃん家だった。

 

そうやって過ごす僕に対し、おばあちゃんはよく、生協で注文したお菓子やジュースをくれた。今となってはおぼろげな記憶になってしまったが、生協の注文書を眺めながら、「あんた、何かほしいもんあるか?」と聞いてくれたことが何度もあった気がする。

基本的には自分で注文の品を取りに行くおばあちゃんだったが、たまには僕が取りに行くこともあった。

 

そうやって取りに行った品の一部は、仏壇に供えられることになっていた。

おばあちゃんはそこそこ熱心な創価学会員だったので、毎日、朝と晩に仏壇の御本尊様に向かってお題目をあげていたのだが、そのときに団子なんかをよくお供えしていた。

そういった供え物は一度下げられると、たいていは僕のお腹の中に消えていくことになっていた。

 

記憶の中のおばあちゃんは、このお題目をあげる姿が印象深い。

身体がすっかり弱っていたここ数年はもうお題目をあげることはなかったけれど、元気な頃は毎日欠かさず勤行をしていた。その熱心さといえば、なんとなく耳に入ってくるだけの僕が出だしの部分を覚えてしまうほどで、「門前の小僧なんとやらって本当のことなんだなあ」と妙な感心をしたことを覚えている。

あんなに毎日なにを祈っていたのか、もはや知るすべはないが、一度くらい聞いてみてもよかったのかもしれない。

 

それだけ熱心なおばあちゃんだったが、ありがたいことに僕にそれを強要することはなかった。

せいぜいが選挙のたびに「公明党に入れてくるんやで」と言ってくるくらいで、僕はもちろん全然違うところに入れているのだが、おばあちゃんには「公明党に入れてきたで!」と答えていた。おばあちゃんは満足そうに笑っていた。

 

大学生になったあたりからは、寝泊まりもおばあちゃん家でするようになったので、ほとんど一緒に暮らしていると言っても過言ではなかった。

僕は極度の面倒くさがりだったので、布団を持ち込まずにリビングのソファで寝起きしていたのだが、そうやってソファからのそりと起き出した僕に対し、おばあちゃんはいつも朝ご飯を用意してくれた。

メニューはたいてい決まっていて、食パンにチーズを乗せて焼いたものと、生協で注文したチチヤスのヨーグルトだ。日によって、これにベーコンだったり、ウインナーなりスクランブルエッグなりがついてくる。

僕の中でのおばあちゃんの味はこのメニューだ。

夕食で天ぷらなど手間のかかるものを作ってくれることもあったので、こんなシンプルなメニューをおばあちゃんの味と言ってしまうのはなんだか悪い気もするが、毎日のように食べたモノの方をよく覚えているのは仕方ない。

(余談だが、おばあちゃんがよく見ていたTV番組は「上沼恵美子のおしゃべりクッキング」で、メモを取りながら熱心に見ていた)

 

おばあちゃんは銭湯に行くのが好きで、毎日のように通っており、誕生日には家族から近所の銭湯の回数券をプレゼントするのが習わしになっていた。

銭湯から帰ってくると、冷やしておいたビールをちびりとやりながら、ときどき日記を書いていた。なにが書かれているのか、僕は読んだことがないので知らなかったが、妹が聞いたところによると、主に家族のことについて書いていたらしい。

そんなに書くようなことがある家族か?とも思ったが、おばあちゃんからすると何かしら書き記しておきたいことがあったのだろう。

 

 

そんなおばあちゃんが死んだ。

 

数年前からボケてしまっていて、ここ数ヶ月は一人でトイレに行くのも難しいくらい身体も弱っていたから、もうそんなに長くないだろうなと思っていたけど、夏を超えられないまま、あっさりと逝ってしまった。

 

ボケてしまってからのおばあちゃんは、やはりどこかが前とは違ってしまっていたように思う。

怒りっぽくなっていたし、好きで通っていたはずのカラオケにも行かなくなっていた。生協の注文書を見ることはなくなり、仏壇の前に座ることすらしなくなっていた。身体が弱ってきていたこともあり、銭湯に行くことも、ご飯を作ることもなくなった。

ゆっくりと、でも確実におばあちゃんは変わり始めていた。

この変化がいつ始まったのか、明確には覚えていない。気付いたらそうなっていた。僕はもう、最後に食べたおばあちゃんの手料理がなんだったのか、思い出すことは出来ない。

 

ボケというのは厄介なもので、外見は何一つ変わっていないのに中身はだんだんと壊れていく。

そのうち、家の中で僕と顔を合わせるたび、「あんた、今日休みか?」か「あんた、おっきなったなあ」のどちらかばかり言うようになった。そのたびに僕は、「休みやで~」なり「元々や!」なり返していたが、少し時間が空くとまた同じ質問が繰り返し飛んできたりした。

思い返せば、僕の中ではこの頃からもうおばあちゃんとのお別れは始まっていたのかもしれない。

もう昔のようなおばあちゃんに戻ることはないのだと思うと、ただただ無力感だけが募っていった。

 

今年の夏が始まった頃には頭も身体もすっかりと衰えてしまい、一人では満足に歩けないほどになっていた。家族の姿を見ても、誰が誰だか分かっているのか怪しい素振りを見せることもあった。こうなってしまうともう、常に誰かが世話をしなければならない。

とはいえ、僕自身は世話をすること自体そこまで嫌ではなかった。怒りっぽくなって、言うことを全然聞いてくれないことには辟易したものだったが、それ以外のところ、例えばトイレの世話なんかは全くと言っていいほど抵抗がなかった。

これは自分でも意外だったが、弱っていくおばあちゃんの面倒は自分が見なければという思いすらあった。

なぜそう思い至ったのかは分からないが、散々飯の世話をしてもらったのだから下の世話くらいして返さねばという思いが少しあったような気がする。

あとは、心のどこかでこうやって世話ができるのも、もうそんなに長くないと分かっていたんだと思う。

 

ここで少し話は逸れるが、家庭内での介護、特に認知症高齢者の介護というものは本当に負担が大きいものだと感じた。

我が家の場合は、かなり恵まれた環境であったと思うが、それでもやはり苦しい部分はあった。

週2回のデイサービス(入浴介助アリ)、毎日の訪問看護(点滴・摘便アリ)という補助はあったものの、それ以外の時間は基本的に家族のみで介護をしなければならない。

特に最後の一ヶ月くらいは、自分の足でトイレに行くことも出来ず、飲食もおぼつかないという有り様だったため、常に誰かがついている必要があった。

なかでもトイレが問題で、おばあちゃんは夜中でも1~2時間に一度くらいのペースでトイレに行きたがる。一応オムツを穿かせているので放っておいてもよい気もするが、放っておくとマトモに一人で立つことも出来ないのに立ち上がってトイレに行こうとするので危ない。なので、夜中であっても誰かが手を引いてトイレに連れて行く必要があった。

もちろん、出した分の水分も補給させてあげなければならない。

とはいえ、コップに水を入れてグビグビ飲むということは出来ないので(そもそもコップをしっかり握る力もない)、少しずつ口元に水分を持っていってあげることで喉を潤わせる。

これが毎日朝まで続くのだからたまったものではない。さらに言えば、朝が来たからと言って終わりではない。日中も同じことが繰り返されるのだ。

幸いなことに、僕はほぼテレワークだったため、日中帯は僕が面倒を見、夜間は家族内で持ち回りとすることで家庭内での介護をこなすことが出来たが、出勤の必要があったり、面倒を見れるのが一人しかいない場合は生活が崩壊していたと思う。

このあたりは父と母の尽力が大きかったので感謝しかない。まあ向こうも同じように思っていたのか、事あるごとに僕に礼を言ってきたが。こういうのはそのとき出来る人がする、で良いと思うんだがなあ。

 

そうやって家族一丸でおばあちゃんの面倒を見ていたわけだが、一つ印象的だったことがある。

その日の担当は僕で、夜中に起きだしたおばあちゃんの手を引いてトイレに連れて行った。こういうとき、おばあちゃんはいつも「ありがとう」としきりに言ってきていたものだったが、この夜は少し違っていた。

「かしこくなりたいなあ」

おばあちゃんの口からこんな言葉が漏れてきた。

どういう意図で発せられた言葉なのかは分からない。

だが、すっかり弱りきってしまい、おそらく先が短い人間が発するものとして、とても大事な思いがここにあると感じた。

 

 

8月17日におばあちゃんの入院が決まった。急な決定だった。

まだしばらくは家で過ごすものだと思っていた僕はこのとき、岡山の友達の家に泊りがけで遊びに来ていた。

なんとなく、まだもう少しは大丈夫だと思っていたが、おばあちゃんはもう限界だった。

 

とはいえ、お見舞いに行って見たおばあちゃんの姿は、意外と元気そうだった。

もはやまともに喋ることは出来なくなっていたが、それでも、こちらが話しかけた内容には反応してくれていたし、体調が良いときには笑顔を見せてくれたりすることもあった。

そんな調子だったから、入院して逆に体調が良くなってきている気すらしていた。

だけどそれは、おばあちゃんが最後に頑張ってくれていただけなのかもしれない。

 

8月26日の朝9時過ぎに病院から連絡があった。

どうやらおばあちゃんの容態がかなり悪化しているらしい。ひとまず母親が様子を見に行くことになり、僕も夕方に仕事を切り上げて病院へと向かった。

 

そこにいたおばあちゃんは、どう見ても限界だった。

話しかけても反応はないし、笑顔なんて素振りも見せない。起きているのか眠っているのかさえも分からない状態だった。

そんな状態ではあったが、病院の面会時間が決まっていることもあり、特例で認めてもらった父親だけを残して家に帰ることになった。父親によると、この残っている間に写真を見せたりしたら、おばあちゃんも反応をみせていたらしい。

 

 

帰宅後、23時過ぎに病院から改めて連絡があった。

父親も一度帰ってきていたタイミングだったため、家族全員で病院へと駆けつけた。

ベッドに横たわるおばあちゃんの姿は、口が半開きになっていたこともあり、なんだかマヌケな顔で寝ているようにも見えた。でも、その表情はもう、全く動かなかった。

そんなおばあちゃんにみんなでお別れの言葉をかけた。

 

そして、2024年8月26日23時48分、おばあちゃんが死んだ。

 

 

ありがたいことに、僕は今まで身近な人が亡くなるという経験をしたことがなかった。

おばあちゃんが初めてだ。

もっと悲しい気持ちになるものかと思っていたが、案外そこまで悲しくはなかった。これは多分、なんとなくもう駄目なんだろうなという思いがずっと前からあって、事前に心構えをする準備期間が用意されていたからだと思う。

 

ただ、漠然とした寂しさは感じている。

何年も同じ家で過ごしてきたし、特にここ数ヶ月は生活の中に占めるおばあちゃんの割合が大きかった分、余計に感じているところはあると思う。

そんなときは、仏壇から微笑みかけているおばあちゃんに向かって、「89まで生きりゃ大往生やろ」なんて話しかけながら、お菓子を供えてやることにしている。

昔もらったお菓子のお返しというわけでもないが、こうすることで、これまで世話になってきた分を少しでも返せているような気がするから。

 

そのうち、この寂しさも薄れていって、おばあちゃんがいない家が日常になるのだろう。

おばあちゃんが寝ていた介護用ベッドはすでに撤去され、家の中はもう変わり始めている。生前着ていた服をどう処分したものか、なんて話題も家族の中で出ている。

おばあちゃんの痕跡はどんどん少なくなっていって、思い出す機会も減っていくのかもしれない。

それで良いのだと思う。

 

でもやっぱり、たまにはおばちゃんのことを思い出すはずだ。

そんなときに読むための文章として今日の日記を書いた。完全な自己満足ではあるが、日記なんだからこれでいい。

 

これを読めば、思い出の中のおばあちゃんに会えるのだ。