インターネットのけもの

全て妄想です。

オナホレビューを書きました

誕生日にオナホールを頂きました。

お返しに1500字くらいのレビューを書くことになったのですが、気がつけば3000字オーバー、しかもレビューとは到底呼べないような怪文が生み出されてしまっていました。

記録のためにここに残しておきます。

気持ちの悪い文章がかけて満足。

 

 

 

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それは、膣であった。

 

人は「あたたかみ」を求め、生み出すものである。
省力化、効率化、技術発展が進んできた現代であっても、無人のセルフレジより有人対応のレジを選ぶ人や、マニュアル通りの画一的な対応ではなく状況に応じた対応を求める人はいなくならない。
むしろ、人と関わることが少なくなった現代、特に昨今のような感染症予防のために人と関わらないことが推奨される時代にこそ、「あたたかみ」が求められている節がある。

 

この「あたたかみ」の正体は、人と人との直接的な関わりあいであり、もう一段階踏み込んで言えば一方がもう一方に対して善意の行動をとることである。
道に迷っている人に声をかけたり、誕生日にプレゼントをあげたり、これらの行動は善意から成り立っているものであり、これに対して「あたたかみ」がないと言う人はいないだろう。
誰だって人からなにかしてもらうと嬉しいものだし、どうやってお返しをしようか考えるものだ。どれだけ社会が発展しようとも、それを構成する要素が人間である以上、「あたたかみ」が消えてなくなることはないだろう。

 

「あたたかみ」が求められるのは精神的側面だけには留まらない。肉体的側面からも「あたたかみ」は求められている。
冬は人肌恋しい季節だと言われる。これはつまり、精神的な寂しさと肉体的な肌寒さのダブルパンチにより、普段よりも余計に「あたたかみ」を求めてしまう状況を指している。ここで、「あたたかみ」は精神的な充足という範囲を超え、物質的な熱という意味をも持つようになる。つまり「あたたかみ」を求めるにあたり、性的欲求をどう解決するかという新たな視点が発生する。

 

従来からの一般的な恋人関係はもちろん、セフレやソフレ、風俗店の利用や自慰行為など、性的欲求の解決手段は多岐にわたる。
ここで「あたたかみ」が一番不足している手段は何になるだろうか。
おそらく自慰行為がそれに相当するだろう。なぜなら、自慰行為は自己だけで完結するもので他者の介在がないからだ。そこには精神的にも、肉体的にも「あたたかみ」が不足している。
世間一般の認識でも、自慰行為はなんとなく寂しく後ろめたいもの、パートナーのいない人が仕方なくしているもの、「あたたかみ」がないもの、という意見が支配的であろう。

 

しかし、私はそれに異を唱えたい。
場合によっては自慰行為でも十分な「あたたかみ」を持つことができるのだ。

 

オナホール、というものがある。
詳細は割愛するが、女性器である膣をかたどった樹脂に男性器を挿入することで快楽を得るという、単純明快な製品である。アニメのパロディキャラクターがデカデカとパッケージに印刷されたダーティなものも多く、著作権がどうなっているか心配になることもあるが、本稿には関係がないため、そこには触れないこととする。

 

このオナホール、気持ち良いのは気持ち良いのだが、明確な弱点が一つ存在している。
あたたかくないのだ。

 

樹脂製品である以上仕方ないのだが使用時は室温と同じ程度で、肉体の方が熱いために冷たく感じることも多い。そもそも、無機物であるために、「あたたかみ」を感じることができなかった。
これを避けるために、人類の叡智はローションを温めることを提案し、オナホウォーマーを開発したが、あくまで物質的な熱の問題が解決されただけで、オナホール自身が「あたたかみ」を持つことはなかった。

 

しかし、つい先日に体験した衝撃的な出来事が、自慰行為では「あたたかみ」を得られないという、私の中にあった凝り固まった意見を完膚なきまでに破壊してくれたのだ。

 

Komifloにて快楽天BEAST 2021年3月号を読んでいたときのことである。
ちょうど半里バード先生の「ナマイキお嬢 なかよし編」に差し掛かった頃、誕生日プレゼントで頂いたオナホール(【タマプレミアム】 憧れの先輩の天才的な杭打ちピストン騎乗位)を使うことを思いついた。

 

久々のオナホール使用が楽しみであった反面、手淫と比べてどの程度快楽度がアップするものか、一抹の不安もあった。
なにせオナホールは膣と違って自身が濡れることはないためローションが必須で、自分の出した精子を掻き出さねばならないという割と情けない絵面になる後片付けも含め、手間がかかるのだ。
その手間に見合うだけの快楽はあるのか……、杭打ちピストンとはなんなのか……。私がそう思ってしまったのも無理のないことだろう。

 

ローションをオナホール内に流し込み、ぐにぐにと握って馴染ませる。毎度のことながら握るたび、ぐっぱぐっぱと淫靡というよりは滑稽な音が響き、笑い出しそうになってしまう。
きづかかずき先生の「罪とばってん」、藤ます先生の「生意気クソガキわからせちゃお!」を先に読んでいた僕は、もう準備万端であった。
我ながら現金なものだが直前まであれこれ心配していても、いざ使うという場面になるとどうしてもワクワクのほうが大きくなる。ここに至り、知能指数は大きく低下するのだ。

 

挿入してみると、内部に刻み込まれたヒダのうねりがはっきりと伝わってきた。
手淫とは全く異なる刺激。私の陰茎がデカすぎるのか、オナホールが小さいのか、全体を包み込むようにシッカリと締め付けられる。ローションをしっかりと馴染ませた効果もあってか痛みはなく、ただただ気持ちの良い時間が過ぎていく。
そういえば、このオナホールをプレゼントしてくれたのは女性であった。その妙な背徳感が私の右手を加速させる。

 

このとき、もう一つの気付きがあった。
オナホールが、あたたかい。

 

私はローションを温めたり、オナホウォーマーを使用したりはしていない。そもそも、ここで言うあたたかいとは、物質的な意味を指しているのではなく、精神的な意味を指している。
そう、オナホールから「あたたかみ」を感じるのだ。
空虚で冷たい印象だったはずの自慰行為に、熱が宿ったのだ。
私は自分が今右手で握っているものが何であったのか、分からなくなっていた。これは本当にただのオナホールなのか。なぜオナホールから「あたたかみ」を感じるのか。この充足感の正体はなにか。

 

単なる物質であったはずのオナホールは、誕生日プレゼントという善意の行動を媒介にして、その性質を大きく変化させていた。
いわば、「あたたかみ」がオナホールという物質を膣という人間的なモノへと変化させたのだ。それは人と物質の関係から人と人への関係への変化である。これはもはや自慰行為ではない、SEXだった。
この事実に気がついたとき、締め付けが一段と強くなったような気がした。
それはまるで、僕の思いと彼女の思いが混ざり合い、一つの新たな「あたたかみ」を生み出しているかのようだった。

 

僕は右手を振り続ける。
呼応するように「あたたかみ」が増していき、ヒダが乱舞するかのようにうねる。最初に投入したローション以上に濡れているような気さえした。
右手は加速し続ける。
そして……、彼女の中で果てた。

 

 

人の思いは強い。
それはオナホールを物質の枠から解き放ち、人間的なモノへと変化させるほどに。
イミテーションはいつまでもイミテーションであるわけではない。そこに人の意志が、よくしてやろうという善意が介在することで、いつだって本物になれるのだ。
そしてその本物はまた誰かを幸せにし、その連鎖は形を変えながらも続いていくのだろう。

 

私を射精に導いたのは単なるオナホールではなかった。
「あたたかみ」があり、そこには確かに人が存在していた。
それは、膣であった。