インターネットのけもの

全て妄想です。

インターネットに求めたもの

先日、久々に記憶が吹き飛んでいってしまうほど飲んでしまい、結構な数の人達に迷惑をかけてしまいました。都合がいいのか悪いのか、記憶の方は綺麗サッパリ海馬から出ていってしまったので、結構な数の人、というのも推測でしかないのですが、酔いつぶれた翌日に、そのとき居合わせた人の何人かに聞いてみたところ、それはまあ酷い有様だったとのことでした。

マーライオンのごとく口から吐瀉物という名の噴水を吹き出す、「僕には全て見えてるんですよ!」とのたまいながら女子トイレに突っ込む、痴呆症ヅラを浮かべながら「僕が競馬の何たるかを教えてあげますよ!」と得意げに耳打ちをかましまくる、などと今の僕が聞いたら「なんとしてでもこいつを殺さなくては」と使命感が燃え上がってくるようなエピソードがバンバン出てきて思わず舌を噛み切りそうになったほどです。

ですが、これらのエピソードはまだ可愛いものでした。続いて聞かされたエピソードに、僕は「もしかして結構まずいことをしたのでは?」と、その日から上手く眠れなくなってしまうほどの衝撃を受けてしまったのです。

僕が酔いつぶれたその集まりにはインターネットで記事を書いているような、いわゆるライターと呼ばれる方々がチラホラと参加していたのですが、事もあろうに、僕はその集まりの中で、それも結構な大声で、彼らが書いている媒体を「あんなものはインターネットじゃない」だの「あれのどこが面白いんだ」だの、好き放題に言い回っていたようなのです。更に悪いことには、初対面のライターの方には、「〇〇の文章の方が圧倒的に面白い」とか言って、完全に虎の威を借る狐スタイルで絡んでいってたらしいというのですから手のつけようがありません。

僕は今まで、うつ病だの精神的な病だのというのは、結局の所甘えなのでは?という老害サイドの考えを持っていたのですが、一連の話を聞かされてから、初めて精神的に弱るとはこういうことかと理解することが出来ました。この場合は、まあどう考えても完全に僕が悪いのは明白なのですが、それによって周囲に迷惑をかけたかも、嫌われたかもと考えてしまうと、なんだか他の関係の無いことまで自分が悪いのじゃなかろうかと考えてしまうのです。

今では随分と立ち直る、もとい開き直ることができるようになりましたが、それでも、なんでこんなことを言ってしまったのか、思っていることが口に出たのだとしても他になにか言いようはなかったのか、とついつい考えてしまいます。25歳にもなって酒の量の調整もできないような僕が悪いことは分かっているのですが、考え抜いた末に自分の中である程度納得がいくところまで纏まりがついたので、一通り書き出してみようと思います。今日のは日記というよりはメモですね。

 

 

完全に主観の話になってしまうのですが、最近のインターネットにおける「面白い」という評価は、「興味を唆られる、見ていて楽しい」という面が強くなっているように感じます。いろんな媒体に蔓延る記事の多くが「こんなことしてみました」や「あそこへ行ってきました」という体験記であり、笑いを取るというよりは、単純に良さを広く伝えたいという目的のもと、書かれているような気がします(もしくは、こんな凄いことしたから反応して!的なの)。こういう題材は、あとで触れる広告記事とも親和性が高いので、最近特によく見かけるようになったのかなとも思います。ですが、これはあくまでも「興味を唆られる、見ていて楽しい」であって、「面白い」とは違うんじゃないかなと。

純粋に笑いを取りにいくという意味での「面白い」はどんどん数を減らし、残った少ない「面白い」もメインコンテンツは文章ではなく、画像になっていることが非常に多いように感じられます。文章の流れで笑いを取るのではなく、画像のインパクトで笑いを取りにいっていたり(それは顔芸であったり面白い構図であったりする)、人間関係を利用した笑いの取り方(特定の媒体のライターは今どき顔出しが当然なので、そこの人間関係、あるいは外部の偉い人なんかを利用したようなもの)が大勢を占めています。

このあたりはインターネットを使う人が増えた以上、より大勢に受けるためには仕方のないことだとは思うのですが(長い文章をしっかり読むことで分かる面白さよりも、画像でパッと見て分かる面白さの方が気軽に見てもらいやすい)、テキストサイト文化からインターネットの面白さに目覚めていった僕としては結構悲しいものがあります。

僕は画像を使わずにテキストのみで、ときに綿密に練り上げられた長文で、ときにスピードとテンポを兼ね備えた短文で、文章という限られた表現をギリギリまで広げて狙われた笑いの取り方が好きだったのですが、残念ながらそういう表現をする人はどんどん減ってしまいました。テキストサイト全盛期にそういう表現をしていた人も、多くは書くことを止めてしまったか、画像を使うようになり文章量が減ってしまった方がほとんどだと思います。お前がそう思いこんでるだけでまだまだ普通にいるよ、という指摘もあるかもしれませんが、見かけにくくなったことは事実だと思います。というか、どこかに隠れているなら教えてもらいたいくらいです。すぐに読みに行く。

画像が使われていることが悪いとは思いませんが、なぜだか僕は文章のみで生み出された笑いのほうがより面白く感じられてしまうのです(フォント弄りもあまり好きじゃない)。なんだか今の多くのサイトはフォントを弄ったり、画像を強調することで、「ほら!ココが笑いどころですよ!」と押し付けてきているようで、心から楽しむことができにくくなってしまいました。ただお前が懐古主義なだけだろ、と言われたら全くもってそのとおりなのですが、多分これは思春期という人格形成の重大な部分を担う時期に、一人引きこもって気に入ったテキストサイトの過去ログやら有名テキストサイトをひたすら読み込むという破滅的な行為に身をやつしていたからというのが重大な因子となっているような気がするのですが(一時は好きなサイトの日記の書き出しを読むだけで内容を全部想起できた)、今回は僕は文章だけで構成された笑いに重きをおいてしまうようになったということだけが伝わればそれでいいです。一般論ではなく、僕個人の話ですね。

インターネットの笑いの変遷について、もう一つ重要な柱となるテーマがあります。それは記事広告の存在です。面白い文章や記事を書けるライターは、一定数のファンが付いており、インフルエンサーと呼ばれたりすることがあります。そういった人たちに記事を書いてもらうことで大きな宣伝効果を狙うというものですね。これ自体は悪いものだとは思いませんが(実際、「興味を唆られる、見ていて楽しい」記事とは親和性が高く、僕もこれはいいなと思ったことがある)、笑いという要素と掛け合わせると途端に難しいものになってしまいます。というのも、笑うということは何かしら琴線に触れるところがあるから笑うわけですが、その最中にいきなり広告が現れてしまうと、困惑するばかりで興が削がれるからです。

商品名などを自然に登場させるのは非常に難しく、どうしても不自然で全体のテンポが悪いものになってしまいがちです。始めのうちはそういう記事を読んでも、「宣伝要素がなければもっとテンポが良くて笑えるいい記事なのになあ」と思うくらいだったのですが、あまりに頻繁に広告記事を見かけるようになると(しかもサイトに貼られている広告の割合も増えていたりする)、「この人達は笑わせるためというよりはお金のためにこういうことをしているんだろうか」と穿った見方をするようになってしまい、なんだか心の底から楽しめることが無くなってしまいました。

お金が稼ぐことは悪いことではないですし、面白いものはそれでも面白い。どう楽しむかは僕がとやかく言うことではないのですが、一度そう思ってしまうともうどうしようもないのです。それに加え、ある文章を書いた人にスポンサーが付くとなったとき、書いていた文章に色々と直しが入ったという話を聞いてからは、そういう曲げられた意図のようなものを感じてしまい、なおさら楽しめなくなってしまいました。僕は書きたくて書かれた文章が読みたいのであって、決してスポンサーの意図を汲んだ文章が読みたいわけではないのです。それによって、元の文章の魅力が失われているとなったら尚更です。ちなみにその人の文章は未だに公表されていません。あまり直しはしたくないと言っていたので、未だに折り合いがつかないのかポシャってしまったのか判断は出来ませんが、スポンサー云々の話がなければ普通にブログかどこかに乗せるつもりだったと聞くと、一読者としてはただただ残念というほかありません。

 こうしたスポンサーに配慮した文章が増えてきた背景としては、ライターとして食っていくことが昔に比べて容易になったからという理由があるのではないかと思うのですが、このあたりはどうなんでしょうね。ただの僕の決めつけだといいのですが、もしそうである場合、文章で食べていくために記事広告を書かねばならないのだとすれば、スポンサーが付きやすい文章を普段から書く必要があるでしょう。即ち、広く大衆に受けるような文章となります。となると、普段の好きに書いている文章でも下手なことは書きにくくなります。であれば、本当に書きたかったものは曇り、八方美人な文章になりがちになってしまうのではないでしょうか。

先ほどスポンサーが付いたことで文章に直しが入ったが入った人の話をしましたが、例えばこの人は、かなり下品で過激な文章を書かれているような方でした。文章がどこかに載ると聞いたときは、「あの文章が果たして今のインターネットに受け入れられるのだろうか…」と不安に思ったのですが、それが見事に的中した形となってしまいました。僕はそういう下品で過激な、どこにも誰にも配慮していない尖った文章が大好きだったので、今の優しい文章に溢れたインターネットは物足りなく感じてしまいます。

どういう文章が好きか、なんて話題は完全に好き嫌いの話にしかならないのは分かりきっているのですが、僕の場合はインターネットでこそ触れられる、TVでも小説でも扱われないような、個人が思っていることを思っているままに吐き出したような、遠慮のない刺激的な文章が好きでした。そこに多少の配慮はあったにせよ、あくまで自分が面白いと思うことを突き詰め、書きたいことを書く文章に憧れを抱いたのです。最近よく見る記事(正直、この「記事」という表現もあまり好きではない、なんかどこかの媒体に載ることを前提に書かれている気がして)は、良くも悪くもTV的というか、嫌われずに広く浅く受けることを目標に書かれている気がしてなりません。

そこまでウダウダいうなら自分で書けよ…。と思われるかもしれませんが、そんなことが出来ればとっくに書いてますし、そもそも一読者として文章を楽しみたい思いからこんなことを考えているわけです。それに、仮に僕が面白い、納得の行く文章を書けているとしても、それは元々自分の中にあったものであって、目新しさを感じることはないと思います。我ながらワガママなものですが、僕が人が書いた面白い文章が読みたいのです。

文章を書く人と読む人の関係性について述べさせてもらうならば、まあこれも完全の僕の考えでしかないのですが、従来、サイト管理人と閲覧者の関係は泥棒に近いものだと考えていました。セコセコと文章を認めた管理人に対し、閲覧者はどこからともなく現れ、好き勝手に文章を盗み見た上に、あれこれ評価を下すわけです。そこに金銭の介在はなく(投げ銭的なものはあったにせよ)、管理人は純粋に多くの人に見てもらうことで楽しんでもらいたい、評価してもらいたい、あるいは本にして出版したいなど、様々な思惑を掲げ、閲覧者は単純にインターネットを楽しみたいと思い読むという関係性が構築されていたように思います。

それが今や、スポンサーの介在によって、スポンサー→管理人→閲覧者という構図になってしまっているような気がします。これは先程も述べたように記事広告に限った話ではなく、それによって影響を受けざるを得ない、普段しがらみのないはずの文章もそうなってしまっているのだと思います。なんというか、皆が自分の好きなものだけ書いていれば、もっと多様性が育まれると思うのですが、なんだか似たようなフォーマットの元(こんにちは、〇〇です。といいながらライターの顔写真を出す→なんかやったり行った場所を紹介する→いかがだったでしょうか…、などなど)、題材だけを少しずつ変化させた記事が量産されている気がしてなりません。これではいくらテーマがよくても、どこかありきたり感を感じてしまっってなんだかもったいない気がします。

ここまで書いてきて気付いたのですが、僕は今のインターネットに不満を持っているというよりは、皆もっと面白いはずなのに勿体無いなあと、嘆いているだけなのかもしれません。僕が散々に好き放題言いまわったという媒体も、僕は好きだった時期が確かにあったのです。それがいつの間にか、拝金主義に走ったように見えるようになってきてしまい、心から楽しむことが出来なくなった末に、腐すような言い方をしてしまったのでしょうか。どちらにせよ、僕の捉え方が捻くれてしまっているのは間違いないと思います。

ファンがアンチになるまでの流れを綺麗になぞっている気がしてなりませんが、書き手の意思が曲げられている(気配がする)というのが気に入らないのでしょうね。それは気のせいなのかもしれませんが、一度そう思ってしまった以上、どうしようもないのもまた事実です。

絵描きにはentyやFANBOXなどの閲覧者が直接パトロンになれる仕組みがあるのに対し、ライターにはそのような仕組みが非常に乏しいのが現状です。このへんが強化されれば、好きなことを書いている人たちが、そのままに収入を得ることも出来たのかなと思いますが、実際問題スポンサーが付くことに比べると、やはり金額の差がでてしまうでしょうから、結局は今の形に落ち着いていたのかもしれません。

思っていた以上に長々と綴ってしまいましたが、ここで述べたことは完全に僕の主観でしか無いので、実情は全く違うものなのかもしれません。そもそも、別に僕はライター事情に明るいわけではないので、思い込みで書いているところも随分ありますしね。ただ自分が何を楽しめて(楽しんできて)、何を楽しめないのか(楽しめなくなってしまったのか)、考えを巡らせているうちにそれっぽい結論が出たから一度書き出してみた次第です。

なにも酔って喚きまくっていたことを正当化しようと思っているわけではなく、なぜあんなことを口走ってしまったのか原因を求めているうちにつらつらと書いてしまいました。まあ完全に後付けの理由だろって感じもしなくないのですが、酔いつぶれていたときの自分が、意識してたにせよ無意識だったにせよ(まあ無意識だったのでしょうが)、思っていたことからそう離れてはいない結論が導き出せたような気がします。

思っていたからと言ってそれを口に出していいかというと、決してそんなことは無く、秘めたる思いは秘めたままでいたほうが幸せであることが多いのですが、酔ってポンコツになった僕はゲロと一緒に思いも全てまとまらないうちに吐き出してしまったようですね。迷惑かけた、不快にさせてしまった方々にはまた改めて謝罪するとして、僕の考えはここらでまとめさせてもらいます。

 

ほんと、ただのメモ書きだな。でも、これがどれくらい間違えていて、どれくらい合ってるのかは知りたいなと思う。このメモには関係ないですが、どうやら今日は「テキストサイト100人オフ」が開催されていたようですね。参加者リストを拝見したところ、知らない名前がいっぱいあったので、しばらくはこれらのサイトを巡ってみることにしようかな。