インターネットのけもの

全て妄想です。

世の優しさに触れた

以前より述べさせていただいているように、僕は業務時間中であっても豪胆に居眠りをこける益荒男であったわけですが、どうにも最近はそうも言っていられないような事情に襲われてしまっているのでした。

 

といいますのも、我が職場でもこの4月に異動というものがあり、それに伴って席替えとかいう小学校みたいなイベントが行われたのですが、その結果としてなぜだかわからないうちに、前後左右に役職が2つも3つも上の上司が集まったばかりか、斜め前の座席には部署で一番偉い人が座るという意味のわからない配置になってしまったからです。周りを見渡しても同期がいないどころか、勤続年数が10も20も離れている人ばかり。同じ20代の先輩すらいないという有様ですから、これはもうたまったものではありません。

そもそもなんでこんな配置になってしまったかといえば、誠に情けない話になるのですが、どうやらうちの職場にも人間関係の良し悪しといったものがあるらしく、手っ取り早く言ってしまうと、「嫌なあいつの近くは勘弁!」という意見を考慮した結果だったというのですから、ただただ驚くばかりです。(40、50を超えたおっさんの口から飛び出した「だってその席やと、座っただけで目につくやん?」というセリフには驚きを通り越して感動してしまいました!)(それと同時に折り合いなんて付けなくていいんだと勇気づけられました!)

僕は社会人になってからは学生の時とは違い、嫌なヤツとも上手く付き合っていかなければならないんだろうなあと思っていましたが、どうやら現実は「あの子とあの子は喧嘩するから遠ざけよう」的な小学生の担任レベルの気遣いがあって成り立っていたと知り、世の中は小さな努力の積み重ねで成り立っているのだと実感しました。

 

ただそんな配慮の結果、とばっちりをうけたのはどう考えても僕であり、これまで悠々と仕事に向き合うというスタンスでやってきた僕の仕事スタイルが乱されるのは必至です。まあ悠々と、というか働き方改革と称して手が抜けるところは全部抜く、なんなら余った時間は居眠りこいてるという完全に舐め腐った態度なだけとも言えますが、それでもやることはやっていたから何とかお目溢し頂けていた状態だったわけです。

それがこんな上司ばっかりの空間に投げ込まれては、仕事が終わりそうな気配を察せられたが最後、賽の河原ばりに仕事をドンドコ積み上げるハメになることでしょう。そしてまた、それが終わる頃には…、という無限ループに囚われてしまう恐れすらあります。というかそもそも、こんなやりにくい空間で仕事なんかしたくありません。どうか、どうかもう一度くらい職場で揉め事が発生して席替えがまた変更になりますように…。僕がそう願ったのも無理はありませんでした。

 

そんな願いも虚しく、席替えは淡々と実行されてしまったのですが、結果としては、なんというか思っていたよりは仕事がやりにくくない、というか上司たちは自席にいる頻度が低いのでむしろ楽になった…、っていうか?あれ?これ結構楽かもしれない!

もちろん上司たちが自席にいるときは別にこちらは悪いことをしているわけではないのに、妙なやりにくさを感じていることもあったのですが、席に居ない時間のほうが長いので、以前にもまして悠々と仕事ができているのではないかと感じられる節すらあります。慣れてくるとそのやりにくさを感じることもなくなり、以前とほとんど変わらない調子で仕事を進めることが出来ている自分に気づくことが出来ました。

 

予想していたよりも緊張感がなかったことが災いしたのでしょうか。席替えから三日も経つ頃には完全に以前の調子に戻ってしまい、また自席で豪快に居眠りをこくようになってしまっていました。それも上司が自席にいるときでもお構いなしに居眠りをしてしまうという、進化したくない方向に豪快さを進化させて居眠りしているのですからタチが悪い。明らかに見られているのに次の瞬間には舟をこいでジャーキング(寝ている時に体がビクッってなるやつ)を起こしているのですからバレバレなのは疑いようがありません。マズイなあとは思っていたものの、特に対策を講じることも無いままに時間は過ぎていったのでした。

そして運命の日。

上司からの「ちょっといいかな」の一言で僕は全てを察していました。なぜなら以前に居眠りを注意されたときと全く同じトーンだったからです。どこか優しい声ではありましたが、流石に二回目ともなるとどれほどのお叱りが飛んでくるのか、心臓をバクバクとさせながら会議室に導かれていくのでした。

ですが、そこで発せられた一言は僕の予想を大きく裏切るものだったのです。

「最近さあ、ちゃんと寝れてるか?」

「はあ…」

どうやら上司は、僕が仕事のストレスやなんやでうまく眠れていないのでは?そのせいで日中に居眠りをしてしまっているのでは?と考えていたようです。どう考えればこんな前向きな考えに至るのか全く不明ですが、これはチャンスです。この機会に、今までの居眠りを含めて全て有耶無耶にしてしまえばいい、そう頭をよぎったのですが、よく考えてみると、ここでストレス性の云々といったら後々面倒臭そうですし、なにより心配してくれた上司に嘘をつくのも憚れます。そこでただ、「しっかり眠っているつもりなのですが…、居眠りは気をつけます」とだけ伝えました。僕は誠実な男です。

上司側も納得してくれ、「皆眠たいときは外行ったりして上手くやってるから、ずっと自席におる必要もないよ」と優しいアドバイスまでしてくれます。ありがとう、ありがとうございます…。これからは眠くなっても上手く立ち回るようします!

 

午後の業務。

そこにはアホ面を晒して眠りこける僕の姿がありました。

上司はもう何も言いませんでした。

頑張ったアルアイン

2019年3月31日。

2018年度が終わり、翌日には新元号が発表されるという、どこか浮足立ったこの日に、僕は歓喜の中にいました。

 

我が家では3月31日といえば、母の誕生日のことを指すのですが、僕はそんなことは全く関係なく、実家のある大阪から約500km離れた東京、高田馬場にて、前日に花見を満喫したメンバーと共に麻雀を打っていました。朝6:30からという少し頭の軸のぶれたとしか思えないような時間設定で始まった麻雀は、前日に朝6時から夜11時までぶっ通しで参加し続けた花見による影響もあり、消耗戦の様相を呈していましたように思うのですが、今にして思えばそれほど消耗していたのは僕だけだったのかもしれません。なぜなら賢明な他のメンバーは早朝からの麻雀に備えてさっさと花見を切り上げていたからです。二次会に遅くまで参加していたアホは僕だけでした。

酒も抜けきらないままに参加した麻雀では、当然のように頭が回るはずもなく、面白いように負けていたのですが、よく考えると負けているのはいつものことだったので、酒はあまり関係なかったのかもしれません。しかし、負け続けているからとはいえ、逃げ出すわけにはいきませんでした。なぜならこの日は、麻雀だけでなくもう一つ大切なイベントが控えていたからです。

 

それが同日3月31日に阪神競馬場にて開催されていた、「大阪杯(G1)」です。

昨年は全部のG1を巡るという、とても素面ではやっていけないような荒行を、預金残高を順調に減らしながら行っていた僕でしたが、流石に2年連続でやるのは本格的な馬鹿であると気がついてしまったため、今年はこのG1というイベントと適度な距離感を持って接しようと決めていたのでした。まあその結果が、雀荘のTVで卓を囲みながら中継を見るというものであったのは我ながらどうしようもないような気がしますが、一人で競馬場まで赴いた挙げ句、シーフに金をかっさらわれていくのはもう勘弁願いたいものです(去年の大阪杯では7万円が失われました!)。

今年の大阪杯は過去にないほど豪華なメンバーが集い、戦前からやれどの馬が展開を握るだとか、新進気鋭の4歳勢が強いんじゃないか、いや5歳勢も意地を見せるだろうと、喧々諤々の議論がかわされていました。そして、その豪華なメンバーの中には、僕が何度も日記に登場させるハメとなったあのアルアインの姿もありました。

今まではそれなりの評価を受け続けていたアルアインでしたが、前走の結果がイマイチであったこと、どうやら新進気鋭の4歳勢が相当に強そうであるといった事情から、今回はかなり評価が低くなっており、全14頭中9番人気という舐められっぷりでした。今までの僕であれば、「9番人気!?世界最強の一角を担うアルアインが9番人気なんて世の中の愚民どもはなんて馬鹿なんだ!!全財産ぶち込み一択」となっていたのでしょうが、ここ最近のだらしなさは僕も評価を下げざるを得ず、1着は難しいが、2,3着ならまああるかなあといった評価に落ち着かざるをえませんでした。

ただ、じゃあ他にどの馬が勝つんだよと言われるとそれもまた難しく、結局はアルアインがいい勝負をするんじゃないだろうかと結論になっていたのもまた事実です。そのことを麻雀を打っていたメンバーに伝えてみると、これがまた散々なもので、「あんな駄馬きやしねえよ」だの「アルアイン以外を買いました」だの、まるでアルアインを買うものは人に非ずといった風潮です。それでも僕は、地動説を唱え続けたガリレオ・ガリレイのように、アルアインの素晴らしさを説いたのですが、教会はこれを認めようとはしてくれませんでした。

 

そしてレースが始まります。

麻雀の方はというと散々な負けっぷりでしたが、そんなことはもう関係ありません。淀み無く打ち続けられていた麻雀牌を掴む手を止め、皆がモニターに集中します。

15時40分、アルアインが真っ先にゲートに収まり、各馬が続きます。大外14番のダンビュライトが収まり、ついに戦いの火蓋が切って落とされました。

先に言ってしまうと、レース内容はアルアインに関するところしか覚えていません。なぜならアルアインをずっと目で追っていたからです。

スムーズなスタートを決めたアルアインは、そのまま前目の好位置につけると、逃げたエポカドーロ、キセキの後ろに控え、コースの内側をロス無く進みます。最後の直線に入っても、すぐに動き出すことはせず、エポカドーロが下がってきたタイミングで、ぐっと内に切り込み、先頭に躍り出ました。そしてそのまま先頭で粘り込みを図ります。

この時点で僕の興奮は最高潮に達していました。ずっと「よっしゃ!よっしゃ!」と祭りの掛け声のように叫んでいたのを覚えています。

先頭に立ったアルアインでしたが、後ろからは不気味にキセキとワグネリアンが徐々に迫ってきます。どちらも強い馬です。抜け出したアルアインとの距離は1馬身もありません。あと少し、あと少しだけ頑張ってくれ!アルアイン!迫るキセキとワグネリアン

 

しかし、しかし!アルアインだ!迎えたゴール、先頭で風を切ったのはアルアインでした!評判の高かった4歳勢も、今まで負けこしていた5歳勢も、全てを抑え込んでアルアインが1着でゴールしたのです!それは2017年の皐月賞以来、約2年ぶりのことでした。

感激のあまり、咆哮をあげたのは言うまでもありません。

 

と、そのときです。

「すみません。他のお客さんもいらっしゃるんで静かにしてもらえると…」

どうやら僕があまりにもうるさすぎたらしく、雀荘の店員から注意を受けてしまったのでした。母親の誕生日に朝から酒の抜けていない状態で麻雀を打つだけでは飽き足らず、競馬中継を見ながら叫びすぎて店員に注意されるなんて、おおよそ考えられる限りのクズの要素ばかりだけのような気がしますが、その時の僕は嬉しさのあまり、何とも思いませんでした。

店員に謝罪を入れ、何事もなかったかのように麻雀に戻りましたが、僕の顔からニヤケが消えることはありませんでした。振り込んでもニヤケていたのでさぞかし不気味だったろうと思います。

ですが、ですがこれほど喜んでしまうのも無理ないことじゃないですか!?一昨年の秋には30万円をアルアインで失いました。その後も合わせるとゆうに50万円は持っていかれていると思います。それだけ負けても、ときには馬鹿にされながらも、それでも、それでも好きだった馬が!ハイレベルと言われた一線で2年ぶりの勝利をあげる。これに勝る喜びが果たしてあるのでしょうか!

 

レース後にはアルアインを買っていなかった哀れな人達から「こんな駄馬が勝つなんて糞レース」、「アルアイン降着じゃねえの?」などと、心無い言葉を投げかけられもしましたが、僕の心は満たされていました。地動説を認めないと言うならそれで構いません。アルアインの強さは僕だけが分かっていればいい。

 

ありがとう!アルアイン

心だけでなく、財布も少し満たされた僕は、アルアインからのプレゼントだとばかりに、美味しい食事をすませて東京をあとにしたのでした。

感想いろいろ

最近複数の方から漫画やら実用書やらBlu-ray、果ては官能小説に至るまで様々な物語を頂戴する機会があったのですが、物忘れがひどい僕は、個別に感想を伝える機会を待っているうちに本の内容が忘却の彼方にいってしまう恐れがあったため、ここに記しておくことにしました。いいように言ってますが、実際には日常生活で何もなさすぎたので感想文を書いて紛らわせているだけなのでした。順番はだいたい見た順番です。

 

 

・「イッキ!!」

知名度が低すぎる、というか無いに等しい競馬漫画。この作品を読み終えたとき、僕はこれほどの名作が埋もれているという事実を嘆かずにはいられませんでした。きっと他にも内容は素晴らしいのに埋もれてしまっている作品は多くあるのでしょう。恐ろしいことです。

人間のときの記憶を引き継いだままサラブレットに生まれ変わった主人公は、閻魔大王にある勝負を持ちかけられます。それはJCで優勝すれば、来世はウハウハな人生を送れるというものでした。勝負に負ければ悲惨な来世になるということもあり、主人公はJC勝利を目指して数々のライバルと勝負を繰り広げる、とまあそういうストーリーです。

主人公がスケベな性格というのもあり、序盤はヒロインに相当する女性ジョッキーの胸に反応したときにしか本気が出せないだとか、やむを得ない事情で男性ジョッキーを乗せた時も、女性の胸を見てから本気になるなど、お色気要素が大きく関わってくるのですが、終盤が近づくにつれお色気要素は鳴りを潜めていき(それでも胸を押し当てることが本気で走るの合図とかは残るのですが)、徐々にライバルとの死闘や、厩務員やジョッキーとの関係性がフォーカスされていき、熱すぎる少年漫画のような手に汗握る展開を楽しむことが出来ました。

そもそも設定が少年漫画的に感じるところとして、この漫画の舞台が地方競馬であるということが挙げられます。20年以上前の漫画ということで、今とは制度が異なるところもありますが、これがまた良い方に作用しています。JCに出るためには枠が定められており、まずは地方競馬で最強にならなければなりません。この時点で、数々のライバルとの勝負が繰り広げられるわけですが、一般的に地方競馬中央競馬に比べて馬がレースに出走する頻度が高いため、主人公が敗北しても逆転する機会が多く、試行錯誤しながらライバルに挑む姿勢が描かれます。また、地方競馬は競馬場ごとの特徴が顕著なため、勝負の展開に幅をもたせることができるというのも面白いところです。

地方最強になっても、もちろん安心する事はできません。ここからやっと中央競馬の馬たちとの戦いが始まるからです。そして主人公が目指すJCでは世界の強豪との戦いになります。

JCの前哨戦として出走した毎日王冠でアナウンサーが叫んだ「府中に衝撃!!」の実況には実際にレースを見ているかのような迫力がありましたし、始めて挑んだJCは明らかにホーリックスが勝利したJCをなぞるような展開で、競馬ファンなら興奮せずにはいられませんでした。そして勝負後の主人公の気付き。もう制したと思っていた地方競馬にもまだ怪物は眠っていましたし、最後のJCにおける主人公の選択は、今までのレース、ライバルがあったからこその、この作品の集大成とも言えるものでした。今まで戦ってきた相手、散っていったライバル、厩舎のスタッフ、全てが繋がっています。

一頭の馬の生涯、出会いと別れ、全てを描ききる素晴らしい作品でした。

 

・「きゅうきゅうしゃのぴーとくん」

日々の業務に疲れた意思を持った救急車のぴーとくんが「もういやだ!」と逃げ出してしまう絵本。

どうやら僕が何度も飲酒でぶっ倒れて救急車に乗せられていたことから、もう呼んじゃ駄目ですよという戒めの意味から、この絵本を贈ってくれたようですが、物語の最後でぴーとくんは仕事の素晴らしさに目覚めていたため、ハッキリ言って逆効果だなと思いました。これからもバンバン呼んであげようと思います。嘘です。

 

・「007 ロシアより愛をこめて

僕は普段映画を見ることがあまりないのですが、流石にこの作品は名前くらいは知っていました。まあでも本当に名前くらいしか知らなかったので、今回はじめてジェームズ・ボンドが007であり、イギリスの諜報機関MI6の工作員であることを知りました。

シリーズ物ということで、前提知識がないと楽しめないのではないかという懸念もありましたが、見始めてみるとそんな懸念はどこへやら、どっぷりと作品世界にハマることが出来ました。少し都合がいいなあという展開もあったりしたのですが、テンポが良く、画面がバンバン切り替わるのであまり気になりませんでした。

スパイ映画ということで、スマートな展開を想像していたのですが、敵の策略にはガンガンハマるわ、解決策は暴力だわで思わず笑ってしまいました。というか、作戦だけみていると敵の罠のほうが圧倒的に優れているようにしか思えなかったので、ジェームズ・ボンドにはもう少し勉強していてもらいたいです。でもこれがパッケージに書いてあった「罠にあえて挑戦するのが英国人気質だ」ってことなんですかね。最終的には暴力でしたけど。それでも格好良さがあるのが不思議でした。

あとはヒロイン役の女優さんがめちゃくちゃ美人でした。調べてみるとダニエラ・ビアンキというイタリアの女優さんらしいです。ロシア人じゃないのかよ。

 

・「巨乳秘書 鬼畜の洗脳研修」

はじめて官能小説というものを読んだのですが、ちゃんと「秘裂」や「媚肉」といった、如何にもという表現がいっぱい見受けられて大満足でした。ただ少し誤字が多いのが気になりましたが。章タイトルも当然ながら独特で、「悪夢の性感開発研修」に始まり、「果てなきエクスタシー」で終わるという、まず一般小説では見ないであろう章タイトルがずらずらと並んでいました。

あらすじとしては、働きはじめた妹が会社の寮に入ったまま帰ってこないことを不審に思った姉が会社に潜入したところ、妹が洗脳を受けているのを目の当たりにする。これは自ら望んだことだと主張する会社側に対し、研修なるものを受けることで妹を救い出そうとする姉。ここから物語が始まる!

壮大なストーリーを感じさせてしまいましたが、実際には淡々と堕ちていく姿が描かれていくだけです。妹の姿を見て「まあ!なんてはしたない!」と思っていた姉も、気がつけば見られて興奮する雌豚に成り下がっているのですからどうしようもありません。

そんな内容なのですが、研修という体で物語が進んでいくため、要所要所で文章が急に丁寧になるのがなんだかおかしく、興奮するよりも笑ってしまう場面のほうが多かったです。「セックスする権利を得る」だの「排泄の管理も会社に権限が委譲するものとする。」だのといった、どんな面して書いているのだろうかとしか思えない文章がふんだんに散りばめられており、全然集中して読めませんでした。特に僕が好きな表現は「うちの社でも歴代最強の淫乱」です。

読んでいて思ったのは官能小説というものは他の小説と違い、読者が想像しているように進めた方が好まれるのではないかということです。あまりに突拍子のないことをされると、興奮よりも驚きや戸惑いが勝ってしまい、官能小説の主目的である「興奮させる(≒自慰行為に導く)」を果たせなくなってしまうからです。このあたりは他の官能小説も読んでみないと分からないことですが。多分官能小説なりのお約束と言うか、「媚肉」みたいな表現を自然に受け入れられるようにならないと、官能小説というコンテンツを真に楽しむことは難しいのではないかと思います。

 

・「ペンギン・ハイウェイ

大学生の時に授業をサボって図書館で読んだ記憶があるのですが、おねショタものだったということ以外の記憶がきれいに吹き飛んでいたため、再読するにはいい機会でした。読み返してみるとやはり良いおねショタもので、僕も小学生時にこんなお姉さんに出会えていたら…、と思ったのですが、そもそもアオヤマ君は元からの性格に加え明晰な頭脳があったためにお姉さんと楽しい関係が築けたのだと気がついてどうでもよくなりました。あの頃の自分に思いを馳せてみても、思い浮かぶのは友人宅でアニメを鑑賞し、家に帰ればネットゲームに興じる悲しい姿だけですからね。アオヤマ君の性格はほんと凄い。大人とされる年齢になって二千二百日以上経ってるけど見習うべきところが多いです。

最終章を読んでいる時に、僕は「セカイ系」という言葉がふと浮かんだのですが、他の方はどうなんでしょうか。そもそも「セカイ系」という言葉の定義が人によって曖昧なので断言することは出来ないのですが、少なくとも僕はそう思いました。主人公とヒロインが世界の謎と向き合いながら重大な(少なくとも当人たちにとっては)選択をするってだけで「セカイ系」だ!と感じてしまう単純な頭なもので。

あと個人的には、森見登美彦はめちゃくちゃ良質なラノベ作家だと思っています。これもラノベの定義が曖昧なので人によるんでしょうけど。「四畳半神話大系」とかはアニメ版もめちゃくちゃ面白かったですし。

 

・「酒好き医師が教える 最高の飲み方 太らない、翌日に残らない、病気にならない」

何度も酒でやらかしている僕にはピッタリの本だな…、と思っていたのですが、よく考えてみると救急車に乗せられるくらいやらかしていたにもかかわらず、その後もやらかし続けている僕が本を読んだ程度で改善されるとは到底思えなかったので、軽く絶望に襲われました。

あとがきでも触れられていたことですが、中身としてはわりとふつうのことが並べられており、酒を飲むときは食べ物もしっかり食べましょう、酒だけじゃなく水も飲みましょうだとか、一気飲みは絶対に駄目だとか、薬と一緒に飲むなよといった内容を、様々な専門家がデータと共に示すものになっています。酒というリスクとどう向き合い楽しむか、というのが主題ですね。

ただデータの中には首をひねってしまうようなものもあったので、まるごと信用するのも良くないかもしれません。実際、専門家の意見も「と推察される」や「と考えられています」のように断言していない形がよく見られました。ただ、どの専門家もだいたい同じようなことを言っているので、全く信用出来ないようなものではないと思います。

面白いなと思ったのは、健康食品であっても副作用は存在するというのと、酔っ払いが何度も同じ話をするのは、前夜の出来事を覚えていないのと一緒で、さっき話したということを覚えてないからというものです。健康食品の話は考えてみれば当然なのですが、極端にいいものばかり取っていては逆に悪くなってしまうという点は普段あまり意識していないなと。あとは酒飲みのことを左党というのはこの本ではじめて知りました。

帯の煽りに「酒は毒か薬か?」と書かれているのですが、僕は知っています。

酒は毒です。

 

・「こいつ、俺のだから。」

元が携帯小説か何かなのか横書き左綴じ形式の小説をはじめて読みました。官能小説と同じくこういう機会でもなければ読むことはなかったでしょう。

主人公である仁菜が1ヶ月限定で学年一モテる佐野くんの彼女のふりをすることになるところから物語が始まるのですが、この佐野くんがまたとんでもない俺様でありながらかなりのポンコツ、嫉妬深く独占欲に満ち溢れたストーカー気質全開の男であるのに、仁菜がどんどん好きになっていく意味がハッキリ言ってよくわかりませんでした。女性はこういう男に引かれるということなんでしょうか。僕も酒に酔うと尊大な態度になりながらも程よくポンコツ、ネット上では人の個人情報を漁るようなストーカーチックなところを見せているはずですが、なぜだか未だにモテた経験が思いつきません。現実とフィクションの落差を僕は嘆くことしか出来ませんでした。

てか世の女性は「お前の笑顔を見たくらいで落ちる男になびくんじゃない、俺のほうがお前のことをずっと見てきたんだ」とかいうセリフにときめいているんですか?僕はこれをどう好意的に解釈してもストーカーが己を正当化しているようにしか思えませんでした。世の中がわからない…。あとちょくちょく入れてくるギャグがイマイチだったので作者はギャグ路線を諦めたほうがいいと思う。

 

・「なぜか一目おかれる人の大人の品格大全」

世の中を生き抜くために何よりも必要なのは「品格」が必要であると説いてくる一冊。大全というだけあってかなりの厚さです。

僕はマナーとかクソ喰らえと思ってるタイプの人間なのですが、なぜそういうマナーやしきたり(魚の尾頭を左に置く理由とか)の由来、なりたちを知るのは中々面白いものでした。

ただ、特に由来や理由もなく「それはマナー違反だから駄目です」「こうするのがマナー」とだけ書かれているものもあってそこは残念でした。

豆知識本として楽しめる側面もあったので、昨今非難されがちなマナー講師みたいな内容に終始している箇所があるのが少し残念でした。

あと、「こんなことも言われなきゃ分からんか…?」ってレベルの内容も記載されていたため、僕は世の中の常識というものの脆さを痛感せずにはいられませんでした。まあ大全ってそういうことなのかもしれないですけど。

 

おわり。

待ちわびたもの

先週、約6年間待ちわびていたテキストをようやく読むことが出来ました。

小学生の頃に我が家にインターネットがやってきてからというものの、僕はインターネットに夢中になっていたのですが、その中でも特にテキストサイトというものに僕は魅せられました。まあそのおかげで大変に暗い学生生活を送ることになってしまったのですが、よく考えてみると他に好きなものといえば、カードゲームにアニメ・漫画と、引きこもりにしかなれなさそうな趣味ばかりだったので、テキストサイトを知らないままでもやっぱり暗い学生生活だったかも知れません。

そんな中でも特にハマっていたサイトがいくつかあったのですが、その殆どは年月の経過とともに更新がまばらになり、ついにはサイト自体が消えてしまうということも珍しくありませんでした。当時の僕のハマりっぷりといったら正直、異常とも言えるほどで、閉鎖されたサイトのログも当然のようにローカルに保存していたので問題はなかったのですが、それでもやはりアクセスしていたページが閉鎖されているとやっぱり悲しくなったものです。

そんなサイトの管理人たちは、今ではライターと呼ばれるような記事を書く人になったり、細々とtwitterなんかでつぶやくだけになったり、あるいは完全に姿を消してしまったりしていました。今回の日記の主になっているのも一度は完全に姿を消してしまっていた人です。

 

僕が「断崖絶壁」というサイトを知ったのはたしか中学生の頃でした。「断崖絶壁」は「必殺!年賀状マニア」こと「ねんまに」氏が日記と称して現実と妄想が入り乱れた狂気のテキストを紡ぎ出すというとてもハイセンスなサイトで、残念ながら今はもう閉鎖されてしまったのですが、僕が大好きなサイトの一つでした。記憶している限り最後に更新された日記が「38歳無職が母親に連れられて風俗に行くも、何故か嬢とではなく母親とセックスをする」であるということからもどうしようもなさが伺えます。ちなみに僕が好きな日記は満栗返士射太郎君(まんぐりがえし・しゃたろうくん)なる人物が世の中の不条理に対して「関係ありません!!!!!!!!」と果敢にキレまくる「射太郎君シリーズ」です。

ねんまに氏は並行してブログ(「ありがとうお母さん。淫売でいてくれて本当にありがとう」ねんまに氏が読んだ本やプレイしたゲームの感想を紡ぐブログ)も運営されており、そちらはサイトの閉鎖後も残っていたのですが、サイト閉鎖後の2013年4月24日に1度更新があっただけで、実質閉鎖状態でした。

喜ばしいことなのか恐ろしいことなのかはわかりませんが、どうやらねんまに氏の熱心なファンは僕だけではなかったらしく、氏のブログには最後の更新から数年が経っているにもかかわらず、ぽつりぽつりとコメントだけが残されていくという異様な状態が続いておりました。そんなコメントを見るたびに「ああ、僕以外にも時計が壊れてしまった人はいるものだなあ」と妙な高揚感があったのをよく覚えています。

しかしながら、3年も経つ頃にはその頻度もかなり落ち込み、年に5,6件のコメントが付くだけとなっておりました。今にして思えば、それでも十分に異様な状況だと思うのですが、当時の僕はコンテンツの終焉を感じ取り、なんだか寂しいものだなと感じ入っていたのを覚えています。氏のtwitterアカウントらしきものを見つけたりもしたのですが、2013年からつぶやきは途絶えており、どうやら使われていないようでした。消えゆく思い出をなんとか繋ぎ止めようと、テキストサイトを管理していた人たちにねんまに氏の行方を尋ねたこともありましたが、結果は芳しくないものでした。

 

こうやってテキストサイトは消えていくんだな…、そんな思いを抱いたまま迎えた2018年4月21日。最後の更新から約5年の時を経て壊れた時計が動き出したのです。

この日、僕は東京で開催されていた「webメディアびっくりセール」というイベントに足を運んでいました。テキストサイトで活躍していた人たちも多数参加する、僕の中のインターネットを煮詰めたようなイベントです。そんな日に事態が動き出すなんて、なんだか運命めいたものを感じます。

一通り目当てのブースを見て回り、一息ついたときのことでした。操作していたスマートフォンtwitterアプリから一件の通知が表示されたのです。

レイバンのサングラスファッション特価特典として、2499円!」

なんだ…スパムか…。

そう思い、無視を決め込もうと思っていたのですが、その送り主を見たとき、僕の指はおもわずその通知をタップしてしまっていました。

「@nennmani」

残念なことに、このときの驚きっぷりを文章で表現する方法を僕は知りません。スパムとはいえ、完全に行方が掴めないと思っていた人のアカウントから連絡があったのです。ただ、この時点で喜びすぎるのは早計です。スパムということは本人が操作して送っていているわけでないですし、そもそもアカウントの持ち主が本人かどうか定かではないのですから。僕は一縷の望みを込めてスパムに返信をしました。

そしてその夜、とうとう待ちわびた人物とコンタクトを取ることが出来たのです。

「生きていているのが分かって本当に良かった…」

僕がまず思ったことです。そんな大げさな…、と思われるかも知れませんが、これまでの日記の内容や消え方を見ていると、そうなっていても不思議はないと思っていたからです。それが元気にしているとわかったのですから、こんなに嬉しいことはありません。ただ惜しむらくは、どうやらもうテキストは書かれていないということでした。

 

しかし、それから3ヶ月後、僕にとっては歓喜すべきニュースが飛び込んできました。

なんと、ねんまに氏が新しくテキストを書かれたというのです。生きているのがわかっただけでなく、新作が読める…。しかも、そのテキストを書くきっかけというのが、僕がとあるライターの方にねんまに氏と連絡が取れたと伝えたところから生まれたと聞いて、僕の喜びはとどまるところを知りませんでした。

残念ながら、すぐに読めると思っていたテキストはどうやらどこかの媒体に載せることになるらしく、その掲載が決まるまではしばらく待つことになるということでした。待つとは言っても、1、2ヶ月程度だろうと踏んでいたのですが、色んな媒体から掲載拒否を食らっているとかなんとかで、読むまでに至りません。しかし、待たされるたびに「掲載拒否されるなんて一体どんな狂った文章が出てくるんだ…」とワクワクすることしきりでした。

 

そしてテキストを書いたとの知らせから半年後の2019年3月21日。半年間、いや6年間待ちわびていたテキストがとうとう公開されました。公開されたテキストは約4万7千文字という長編で、僕は6年間のことを振り返りながら、噛みしめるように楽しんだのでした。

一向に更新されないブログを覗きに行き、コメントを書き記し、ローカルに保存していたログを読みながら、もう二度と出会うことはないだろうと思っていた文章。それが今、目の前に…。

こんな経験はそう出来るものでは無いでしょう。今日の日記はただ単に、もう見れないと思っていたテキストを読むことが出来て嬉しいなあと、その一言で済むことなのですが、まさかのねんまに氏本人から感謝の言葉を頂戴し、歓喜の絶頂にいるなかで思わず書いてしまいました。

 

まあなんというか、これからもいっぱい面白い文章が読みたい。

飼っていた鳥が死んだ

昨日、長年飼っていた鳥が死んでしまった。

いつから飼い始めたのか、細かい時期はもう覚えていないけど、たしか小学6年生のときには元気に家の中を飛び回っていた記憶があるので、15年近くは生きていたのだと思う。病気をすることもなく、なんとなくこのままずっと家にいるような気がしていたのだが、当然そういうことはなく、呆気なく逝ってしまった。

まだヒナだった時に、妹が欲しがって近所の家から貰ってきたものだったが、大体の家庭の例に漏れず、世話の殆どは母がしていた。飼っていた、とは言うものの、僕はほとんど世話というものをせず、時々籠から出して遊んだり、話しかけたりしていただけなので、感覚としては「家に居た鳥」というのが強いかもしれない。その鳥は、母の好きなゲームのキャラクターから名前をとって、「まある」と名付けられていた。

 

「鳥」と書いているが、これは僕が「まある」の品種をよく知らないからである。もちろん、まあるがインコだということくらいは理解していたが、それが具体的になにインコなのかは全く認識しておらず、ぼんやりと「鳥」として認識していた。今調べてみるとどうやら「ボタンインコ」という品種らしい。なんだか聞いたことがある言葉なので、どこかで一度くらいは聞いていたのかもしれない。「ルリコシボタンインコ」で調べるとそっくりな鳥が出てきたので多分これだろう。

性別だって当然知らない。僕以外の家族も多分知らないのだと思う。中学生くらいの時に、母に「まあるはオスなのか?メスなのか?」と尋ねたことがあったが、その返答は「多分オスだと思うが分からない」というものだった。どうやらボタンインコは性別の判断がつきにくい品種らしい。ただ少なくとも僕は性別がどっちだろうと気にしていなかったし、僕以外の家族も分からないならそれでいいや、くらいのスタンスだったのだと思う。

僕と家族にとって大事だったことは、ボタンインコがどういう品種でオスとメスでどんな違いがあるのか、ではなく、家のまあるは何をされると喜んで何をされると怒るのか、だった。目の前で新聞をひらひらさせると狂ったように噛み付いてくるとか、暗がりに行くことを怖がるので遊ぶときは電気をつけてあげないと駄目だとか、元気に飛び回っていたのに急にじっとしてお尻をもぞもぞしだすとウンチのサインだとか、そういうことが分かっていれば十分だった。

新聞以外にも輪ゴムが好きで、輪ゴムを結んで差し出すと、クチバシを器用に使って解きほぐしていたものだった。解きほぐしている最中はよっぽど夢中になっているらしく、横から輪ゴムを取ろうとすると指に穴が空くんじゃないかってくらい噛みつかれたこともあった。一度怒るとしばらく怒りが持続するらしく、その後は触ろうとしただけで噛み付いてくるので、籠に戻ってもらうのにも一苦労した。

人の頭に乗ることが好きで、特に父の頭がお気に入りのようだった。ジャンプを読んでいる父の頭にまあるが止まる。父も慣れたもので、ページを捲る手は止めない。そこに僕がすっと指を差し出す。まあるは基本的には素直な性格だったのでサッと指に飛び乗ってくる。そういうシーンが何度もあった。分別がつく鳥だったらしく、あちこちにウンチを飛び散らせていたわりに人の頭の上でウンチをすることはなかった。そのへんはまあまあ賢かったように思う。

僕の頭にもよく止まっていた。肩や腕に乗っているときはやけに動き回るのに、頭に乗っているときはじっとしていることが多かった気がする。まあるを乗せて本を読んでいるときの何とも言えない感じが僕は結構好きだった。

 

正直に言うと15年間、まあるのことがずっと好きだったわけではない。中学生のときには疎ましく思っていた時期がたしかにあった。

まあるが住処としていた籠は僕が寝起きしていた部屋に置かれていたのだが、これがやけにうるさい時期があった。籠がうるさいというと、ぴいぴいと鳴くのがうるさいのかと思われるかもしれないがそうではない。まある自身の鳴き声がうるさい時もあったがそれは仕方ないと思うし、実際特になんとも思わなかった。我慢できなかったのは籠自体を震えさせてビョーンと鳴らす行為だった。

まあるを飼っていた籠は、よくある70cm角くらいのほぼ立方体のケージで、一日の大半をまあるはそこで過ごしていた。あるとき、まあるはケージの一部にクチバシを引っ掛けると(人間が弦を引くように)ビョーンを震えることに気がついたらしく、その行為に夢中になった。

一度や二度なら気にならなかっただろうが、これを昼夜時間を問わずに繰り返し行うので、こちらとしてはたまったものではなかった。特にテスト前なんかが最悪で、夜に勉強している最中に鳴らされ集中を乱される、ようやく静かになったかと思い夜更かしして勉強、翌朝までぐっすり眠ろうとすると、早朝から鳴らされて叩き起こされる。夜更かしした人間が叩き起こされるというのだから、そのやかましさは分かってもらえると思う。

どちらかが部屋を変われたら良かったのだが、当時空いていた部屋にはエアコンがなく、僕が移動するにしても、まあるが移動するにしても不都合があった。受験勉強中なんかに鳴らされたときには、「まある!」と叱りつけていたのだが、びっくりして少し止めることはあっても、またすぐに再開していたのであまり意味はなかった。

今にして思うと叱るほどのことではないと思うし、あの行為は構ってほしくてしていたような気がするので、もっと遊んでやればよかったと思う。行き場のない籠の中で飼われて、部屋に誰も居ないときはひとりぼっちだったのだから、そりゃ部屋に人が来たら遊んでもらいたいと思うのが道理だろう。僕が勉強したいとか、寝たいとか思ってたのは一方的な都合でしかなかった。

 

高校に入ってから今に至るまでは、僕は近所に越してきた祖母の家で過ごすことが多くなり、まあると遊ぶ機会どころか、まあると会う機会まで激減してしまった。仕事を始めてからはそれが顕著で、平日は一切会うことがなく、休日は学生時代と打って変わって、やけに外出するようになってしまったので、一月以上まあるを見ないこともざらになった。

それでも、僕はまあるがどういう鳥なのかはしっかり覚えていたし、たまに遊ぶときは楽しかった。まあるの方も昔と変わらないまま、頭に乗ってくれたし、怒ったときには指に噛み付いてきていた。籠に入っているときでも、ケージの隙間から指を入れてまあると遊んだりもした。ただ、僕の生活の中でまあるが占める割合は確実に減っていた。

 

だからなのかもしれない。一昨日、まあるの調子が悪いと聞かされたとき、「あー、とうとうまあるも死ぬのか」としか思えなかった。死んだ今になっても「死んじゃったなあ」としか思えていない。15年近くも一緒に居たのだから、なんだかもっと、自然に涙が出てきたり、他のことに手がつかなくなったりするかとも思ったが、今も普通に日記を書いている。

一昨日、調子が悪いと聞かされたまあるを見に行くと、籠の中でじっとして動こうとしなかった。昔は人の気配を察知したら喜んでケージの端まで飛びかかってきていたものだが、もうそんな元気も残っていないようだった。呼びかけても返事はなく、既に死んでしまっているのかとも思ったが、呼吸に合わせて身体が動いており、どうやらそうではないらしいと気がつけた。ただ、その呼吸は明らかにいつもよりも弱くて浅く、回数が多いものとなっており、先は長くないのだろうなと予感できた。そこまで苦しそうではなかったので、このまま眠るように逝ってくれたらいいと思った。

 

昨日は以前から友人とUSJに行く約束をしていた。朝起きるとまあるがとても苦しそうにしていた。前日のまま逝くことは出来なかったらしい。普段はしまっている羽を伸ばしきっており、静かにしていた昨夜とは違ってピイピイと苦しそうな鳴き声を上げていた。素人目に見ても今日中に死んでしまうだろうことは明らかだった。

母がまあるを抱えようとしたが、僕は「もうええ」とだけ言った。

どうやら母は、父と一緒にこれから動物病院にまあるを連れて行くらしい。母も分かっているらしく、「一応な」と言っていた。「ついてくるか」とは聞かれなかった。僕はUSJに行った。

ハリーポッターのエリアでアトラクションに並んでいると、母から「まあるが死んじゃった」と連絡があった。添付されていた写真にはまあるが見たこともない姿勢で横たわっていて「ああ、死んじゃったんだな」と思った。朝とは違って羽がキレイにたたまれていた。動物病院には間に合ったのかだとか、最後はどんなだったか、とかは聞かなかったし聞けなかった。ちょうど近くでスズメが鳴いていて、まあるのことも色々考えたけど涙は出なかった。

結局、USJには閉園時間近くまでいた。家に帰ってからまあるの亡骸を抱えて気がついたのだが、僕は生前のまあるを抱えたことがなかった。一緒に遊んだりはしていても、それなりに警戒心は残っていたのか、絶対に包み込むように抱えさせてくれることはなかった。いつかは、と思っていた時期もあったが結局実現できていなかった。

 

そして今日。

まあるを家の前に埋めた。最近では珍しく兄妹全員が揃っていたので、みんなで花とよく遊んでいたおもちゃと好きだった麻の実を一緒に埋めた。猫が掘り返したりしないように缶を棺に見立てるなど工夫もした。うまく土に還れないかもしれないけど、厳密に封をしたわけじゃないから大丈夫だとは思う。あと、もし猫が掘り返したらと考えると、ものすごくムカムカしてきたので、やっぱりまあるのことが好きだったなと実感した。歪んだ実感の仕方だけど。

 

まあるが死ぬとわかっている時に遊びに行く僕には悼む資格もないかと思ってモヤモヤしていたけど、こうやって認めてみるとスッキリしたので日記にしてみてよかった。今日くらいは生活の中でまあるが占める割合を昔みたいにしたかった。文章にして残しておけば今日のことも詳細に思い出せるだろうし。

まあるのことを忘れる心配はしていない。なぜか母のLINEアカウント名が「まある」だからだ。これは果たして好きなゲームのキャラクターか、家に居た鳥か、どちらから取ったものなのかは分からないけど、この名前を見るたびに思い出すことは間違いないだろう。こういう繋ぎ方があってもいいと思う。